第一期 創設期(旧制中学校 昭和15~20年)

豊島が丘、西巣鴨の地

「豊島」の地名は、古代律令制下の武蔵国の郡名にまで遡る。室町後期に池袋・菅面(巣鴨)・駒込・高田の地名が既に見られる。江戸時代には周辺は人口は約3千人前後。中仙道など街道沿いに町場地域が形成されはじめた。明治22年に、市制町村制の施行により巣鴨町・巣鴨村ができた。明治36年多くの文京生が通学で使ったJR大塚駅が開業。昭和7年巣鴨町・西巣鴨町を含む豊島区が誕生。戦前は大塚駅が城北の中心で、昭和初期には白木屋デパートがあり、城北地区の繁華街として繁栄した。

母校の誕生(昭和15年4月30日)

昭和15年(1940年)4月18日に文京高校の前身、第三東京市立中学校が誕生した。戦前豊島区には男子の中等教育機関がなく、中学校への入学試験は激化。王子区と招致競争となった。昭和15年皇紀二千六百年記念行事として東京市議会が中学校、高等女学校一校ずつの設立を議決。昭和15年東京市で第三東京市立中学校の新設が3月に急遽認められ、4月18日現在の地である豊島区の養育院巣鴨分院跡の敷地に設立が決定した。定員は一学年200名、合計1000名。第一東京市立中学校(後の九段高)の川島源司教頭が本校初代校長(昭和15~20年)として就任。校長・教師9名の下で昭和15年4月30日第一期生221名による入学式が行われ開校した。

校訓「至誠一貫」と新しい教育実践(昭和15年)

川島校長は「何事も誠の心を持ち、ひたすら実践せよ」と「至誠一貫」を校訓とした。全ての活動はここに発しここに終わるという気風を打ち立て、その理想は現在も文京の教育目標として受け継がれている。教育課程についても、午前に知的学科を課し、午後に体育や芸術を課すことを理想的とし、放課後は天文・地震・気象・習字・和洋絵画・尺八等のうち一つ以上を自由に選択し練習させるようにした。これらの構成を通して「知徳体」の教育実践で、日本に冠たる中学校として、新しい学校づくり取り組んだ。規律正しい中にも自由な雰囲気のなかで、新進の指導者も集まり、文化功労賞を受賞した佐藤幹夫京大名誉教授(二期D)、高杉暹元横浜市立大学長(二期A)など優秀な生徒が多数輩出した。

徽章と制服(昭和15年11月)

昭和15年11月3日(明治節)に校旗奉戴式と校歌制定式を挙行した。校章は日本文化の象徴として菊花を取り、東京市立の意味を表現するために東京市の紋章である亀甲形にして「中」の字を入れた(現在は「高」)。さらに昇る朝日のごとく、明るく、強く、正をあらわし邪を打ち破る青年の意気を象徴するために光を外側に付け加えた。服装は背広スタイルの校服にネクタイ。帽子には白線が巻かれ、中に2本の黒い線が入っている。3本の白線は市立三中を表し、いかなるときも堂々と市民の前に誇りを失わないためにと願って付けた。昭和18年から戦時色が入ってきて、黒い平らな制帽からカーキー色の丸い戦闘帽に、ネクタイの背広は同じくカーキー色の国民服に変わり、ズボンのすねの部分にはゲートルを巻くようになった。

全校給食制と朝礼の裸体操(昭和15年)

新しい学校の特長の一つは全校給食制だった。川島校長は食事を教育課程に位置づけた、。「茶裡飯裡別所に向かわず」(お茶とご飯から目を離さずに、よそ見をしないでしっかり頂きますという意)と一同が唱えてから一斉に食事をし、「一物も残すべからず」と全てのものを食するよう指導した。お腹の悪い者のためには「おかゆ」を給した。もう一つは裸体操。奥田行信先生(昭和15~33年、3代校長)の「東京の子供は特に身体と精神を鍛う必要がある。毎朝裸体操をやろう」との提唱で始まった。上半身裸で朝礼に臨み校歌を合唱し、その後学校の外をワッショの掛け声で一周し戻り、乾布摩擦をした。これを一年中、教師・生徒一丸で行った。また若い時から正しく歩く習慣をつけようと、登下校時、大塚駅と学校間は一列縦隊で歩調を揃えて歩いた。裸体操と一列行進は街の評判となり、新聞にも写真入りで紹介され市立三中の名物となった。

新校舎建設(昭和18年)

校門を入ると、色々な名木の前庭があって、その突当りに明治30年頃に建てられたという2階建て木造約750坪の本館が建ち、その両翼に2棟の特別教室、更に玄関正面にお寺のお堂を改造した講堂、その右手に、管理関係の建物(約60坪)。これらが本校最初の校舎であった。
昭和15年9月に東京市の予算が付き、8千坪余の敷地が学校のものとなった。そして新校舎建築に乗り出す。「昭和16年から工事が始まり昭和18年8月には工事が終了し校舎全部の落成を見る」計画であった。しかし戦時中で資材を集めるのが難しく、やっと昭和18年第一期工事に取り掛かった。しかし第一期工事が半分できた頃、昭和20年4月の空襲にあい、一夜にして全てが灰に化した。

東京都立豊島中学校と改称(昭和18年7月)

昭和18年7月に東京府・東京市の二重行政を一本化する都制が実施された。これにより校名を「都立豊島中学校」と改称した。

勤労動員(昭和19年4月)

昭和19年第一期生が5年に進級し、初めて中学校の体裁を整えた。学級数は24、生徒は1119名となった。しかしその4月勤労動員が決まり、5年生122名は板橋志村の日本マグネシウムに動員となった。その後7月には4年生が、11月には3年生が日本マグネシウムのほか理研工業、南国特殊造船などに動員された。20年1月には2年生、1年生が勤労奉仕に駆り出された。動員先で終業後授業が細々と行われた場合もあったが、ほとんどは学業とは縁遠い状態だった。

第一回卒業式(昭和20年3月)

昭和20年3月27日、初めての卒業生を送り出した。第一期生217名、第二期生259名の476名。二期生は政府の命令で4年間で繰り上げ卒業となった。講堂はなく校庭で行われた。上級校進学を目指す生徒は多く、4年生にとっては5年生との同時入試で大きなハンディキャップとなったが、それにも拘わらず多くの逸材を輩出した。その後焼き出され卒業式は場所を変えたが昭和26年にPTAの協力で現在の場所に講堂兼体育館が建設され、3期生の卒業式が再び創立の地で行われた。

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