清水照夫先生

山小屋日記「電気のある生活」

最近、山に出かけて感じることは、中高年者は依然と多いが、百名山ブームは下火になったことだ。経済の好景気についても言えることではあるが、長期にわたるブームなどはあるはずがないのである。  私が登山を開始した頃も「三人寄れば山岳会」と世間では揶揄されていた。井上靖の「氷壁」が昭和30年代前半に発表され、ハイヒールを履いた若い   女性が上高地に登場して世の顰蹙を買っていた。  私も友人に誘われて山のクラブに入り、このブームの渦中に身を投じて居たことになるのだが、不思議なことに今日まで50年近く続いていることになる。
2008091805[1]30代半ば頃、八ヶ岳の山麓に地元の大工に頼んで山小屋を建てた。落葉松の中の一軒家であるから電気なし、水道なしの正に原始生活である。夏はここに1ヶ月間、滞在した。規模は違うが、当時テレビ放映されていたローラ・インガルス・ワイルダー作の「大草原の小さな家」のような環境で、敷地内ではリスが枝から枝へピョン、ピョンと飛び回り、初夏になるとホッチョ・カケタカと特色のある鳴き声の時鳥がさえずっていた。(左 清水先生 中 内田氏 右 山口先生 )

野生の鹿と出会いがしらに正面衝突しそうになり私もびっくりしたが鹿も驚いた様子で退散していった。  冬は寒く、零下10度以下になり、掛け布団の吐く息のかかる部分は凍結していた。夏には友人を招いた。東京の英会話学校の講師アメリカ人夫妻も日本人の知人と一緒に見えたこともあった。 山岳部の夏山合宿で南アルプスから帰ってきた時、肩の付け根あたりに小指先大の血豆のようなものがあり、恐らくザックの肩紐で擦れて、できたであろうと思っていたのだが、数日後、風呂に入った時その血豆はぽとりと取れてしまった。よく見ると白い足が何本もある甲殻類の虫であった。毒虫であってはまずいので諏訪中央病院で診察してもらったら、牛や馬に取り付き血を吸う虫であるとのことだった。2008091804[1]合宿中は蛭にも苦しめられ、貴重な血液を大分、虫たちに献上したことになった。

昭和60年頃、日航ジャンボ機が墜落して520名の死者を出した事故があった。早朝から小屋の上空をヘリコプターが騒音を立てて飛び交じっているので、この様子では遭難地点は八ヶ岳山中ではと思ったが、実際は群馬県上野村の御巣鷹山中であった。この2つの山は直線距離では近いはずである。(前列右側 清水先生 後列左 石井先生)

電気のない生活は文明社会に慣れてしまった現代人には不都合である。こんな山奥に一個人の要望で電気を引くのは自分勝手すぎると遠慮していたのであるが、思い切って中部電力に申請したら許可が出た。電気があれば冷蔵庫が使える。電話が入る。風呂の水も近くの堰からポンプでアップできる。テレビが入る。洗濯機が使える。ランプは山小屋の雰囲気を醸し出す装飾品となってしまった。電気は現代社会では空気の様な存在であるが、この時は心身に革命が起きたような気分であった。

このようにして22年間使った山小屋周辺に異変が生じた。長野県とリゾート開発を計画している大手の建設会社が提携してダムを造り、わが家はダムの底に沈んでしまうというのである。私は普段は東京に居るので強い反対運動を支援できない。反対派の人によれば、ここ八ヶ岳山麓は北アルプス、中央アルプス、南アルプスなどが展望でき、近くには白樺湖、霧ヶ峰がある長野県を代表する景勝地であると言うのである。結論は等価交換で代替地に移ることになった。いろいろ候補地があったが最終的には、大手不動産会社が開発した別荘地に決まった。以前は水を確保するのが大変だったが、ここでは蛇口をひねれば水が出てくるのである。これは助かる。テレビもケイブルなのでCNN放送まで入る。  退職したら、ここに居を移し、のんびり老後を過ごそうと思ったが諸般の事情もあり現在は東京との二重生活をしている。その間に四季折々の八ヶ岳連峰の美しい自然を楽しんでいる。

2008091803[1]

←右から2番目 清水先生
左から3番目外川先生 白馬岳にて

2008091802[1]

卒業生が山小屋で働いていました。左端山口先生

 

清水照夫先生のご紹介  英語、平成元年~平成12年  略歴   昭和14年9月22日生まれ、68歳。北園高校から東京学芸大学英語科卒。   都立葛西工、北野等を経て、平成元年文京に赴任。平成12年まで母校で英語を教え、退職。   また山岳部顧問。(山岳部は平成10年に部員がいなくなり休部中)。   30歳頃に筑波山に登り、日本百名山の踏破を目指す。63歳のときに鳥海山を登頂し、ついに百名山完登を果たした。