四期(旧)

同窓生便り

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訃報 静谷晴夫名誉会長

sizuya[1]

 

 

 

 

 

静谷晴夫名誉会長(旧四期B)は3月19日(火)朝 都立大塚病院逝去されました。82歳 謹んで哀悼の意を捧げます。
なお通夜は3月22日(金)18時~ 告別式は3月23日(土)9時30分~11時に桐ヶ谷斎場で悲しみのなか多数の参列者に見守られて厳かに執り行われました。
同窓会会長 杉本安弘 静谷晴夫名誉会長と杉本安弘現会長

1.   静谷晴夫さんの学歴   昭和5年7月10日 長野県(現在の)須坂市で誕生               小学生の時に上京、現在地(豊島区西巣鴨4丁目)に住む。
昭和18年4月   第三東京市立中学校(その後都立豊島中学校→文京高校)に入学
昭和23年3月東京都立豊島中学校卒業(旧四期)
昭和34年3月   東京医科歯科大学博士課程を卒業 医学博士
2.  評伝   以下のことは私が静谷先輩から直接伺ったことを基に書きますが、聞き違い・記憶違いがあると思います。お気づきの点はご連絡ください。
1) 都制実施・勤労動員・学制改革
(1) 静谷さんが入学した昭和18年の7月には東京都制(東京府・市の2重行政を解消)の実施に伴い、校名は東京都立豊島中学校と改称された。当時学校には陸軍から配属された将校1名がいる時代で、体育のKという教師が理由をつけては生徒を殴っていました。通夜のお清めの席で同期の方々は「ビンタ」の話題で盛り上がっておりました。
(2) また昭和19年3月には「決戦非常措置要綱に基づく学徒動員実施要綱」が実施され、中学生も勤労動員に駆り出された。2年生は深川で薪運びとか防空壕堀りなど軽作業であったが、昭和20年4月13日の城北地区の大空襲で学校は全焼した。  校舎が焼けた後の5月に3年生は軍需工場に勤労動員させられた。静谷さんからは「中学時代電気のことは学ぶ機会がなかったので今でも知識が全くなくて困っている」と聞かされました。    (3) 静谷さんの学年はまた学制改革で翻弄された学年でもあった。 1年上の学年は「旧制」で通すことが出来たが、静谷さんの学年は①中学5年で卒業するか。旧制高校に入学しても1年で新制大学を受験しなければならなかった。 ② もう1年学校に居て新制高校1期として卒業するか、苦渋の選択をせざるを得なかった。静谷さんも「新制大学受験には新制高校を出ていなければとの噂があり、その1年間を千葉医大付属薬専に通いながら文京にも顔を出していた。」との話を伺っております。   2)  同窓会活動
(1) 同窓会での役職
昭和23年度~29年度(7年間) 同窓会発足とともに副会長   昭和30年度~34年度(5年間) 会長(第1次)   昭和35年度~39年度(5年間) 監査   平成4年度(1年間) 副会長 この年は文京高校の「新校舎落成並びに(2年遅れの)創立50周年記念祝賀会」が開催された。   平成5年度~13年度(9年間) 会長(第2次)   平成14年度~逝去 (11年間) 名誉会長
(2) 同窓会活動は昭和23年度から始まるが、会則などは静谷さんの自宅で作成した。 その意味では「同窓会」の生みの親とも言える。なお旧制中学校卒業時満17歳で副会長になっている。初代会長の山之内昭夫さん(旧一期)は満20歳です。
(3) 会長には2度通算14年間就く。その意味では「同窓会」育ての親でもある。  参考までに昭和23年度~29年度の7年間は山之内昭夫さん・鳥海純さん・戸田豊鉄さんの旧一期3人が会長になっていた。そして昭和30年度同窓会長に就任された。昭和35年度医師の仕事が忙しくなったので、会長職は新4期の長谷部信さんに譲られたが、長谷部さんが昭和38年度に辞意を表明し、旧一期の渡辺剛彰さんが会長になられた。渡辺さんは昭和38年~平成4年度まで30年間会長であった。   私は平成5年から静谷会長のもとで役員になったが、静谷さんが「長谷部君が会長を旧一期に戻したから、また会長をやるはめになった。どんどん下に送っていれば今頃会長も役員ももっと若い人が活躍できたのに」と嘆かれておりました。
3) 学校運営連絡協議会 委員      文京高校では、他の都立学校(平成14年度から)に先立ち平成11年度から学校運営連絡協議会を実施している。   静谷さんは平成11年度~23年度まで13年間委員となる。(初めは同窓会長として、後半は豊島区教育委員会の委員及び委員長として)
4) 他の役職    豊島区医師会長、東京都医師会の常任委員として活躍
5) 酒について     静谷さんと酒の話は尽きない。新潟県燕市の「ほしの酒造」から吟醸酒を樽買いし「静谷正宗」として1升瓶・4合瓶に詰めて会合に持ち込んでいられました。   同窓会の秋の行事「同窓生の集い」が平成5年から毎年開催されているが、毎年「静谷正宗」1升瓶を10本程度持ち込んでおられた。「同窓生の集い」参加者からは「会費2千円払っても静谷さんの酒が飲のめるから安い」と言われていました。   「第16回同窓生の集い」(平成20年)に当り人騒動があった。この年は戸谷賢司校長が赴任した年であります。戸谷先生は全国高校校長協会の会長になられました。また東京都が都有地内での禁煙・禁酒を徹底した年でもありました。同窓会役員会では静谷さんの吟醸酒持ち込みについて、「継続派」と「中止派」が激論し、「戸谷校長に迷惑はかけられない」と中止に決まりました。
告別式でマイクから「東大医学部を受験したが、その前日お酒を飲みすぎて当日酔いがまわって失敗した。」と放送されたが、私は静谷さんから「酒かすが手に入り、試験前夜飲んだら数学の試験の時に酔いがまわって失敗した。」と伺っています。
また静谷さんは「熱燗」は好まれなかった。若い時は同窓会誌「紫筍」に「ワインの勧め」を書いたくらいです。その後醸造技術が進歩し美味しい吟醸酒ができてきたので、吟醸派になられたようです。お酒は最初こそお飲みになられたが、注いでまわることが多かったようにお見うけしております。
静谷先輩色々なことを教えてくださりありがとうございます。思い出話は尽きません。暫く経てば我々も参ります。浄土でもまた教えてください。  合掌

四期メモリアル集

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傘寿同期会 (豊島中四期・文京高I期) (写真撮影 秋山 満(D))
平成22年11月25日 (木) 北の家族大塚店で開催。幹事 前田禎美 (A) 静谷晴夫 (B,代表)、原 巍 (C)、高橋 明 (D)、近藤喜男         (E),菊池達長 (D,庶務)で呼びかけを行い、同期生32名、同夫人3名として橘先生が参加さ れ、傘寿を記念し司会菊池 静谷代表挨拶 橘先生挨拶        高橋幹事乾杯 出席者挨拶で盛大に行われた。
1969 年に第1回同期会を茗渓会館ではじめてから50 回毎年開催されたが、傘寿を区切りとして同期会は行わず、歩こう会をはじめ有志の活動に変えた。