遊川益次先生

コーラスと私 

コーラスを聴くと自然に体が反応する。創部して間もない音楽部のコーラスを耳にし、築山先生に混じって指導するようになった。昭和26年、文京の国語教師として初めて教壇に立った直後のことだった。  文京は懐かしい思い出が一杯

当時のことは懐かしいが、混声合唱でよく練習した。ピクニックなどにも出かけ、そこでも歌ったものだ。文京は戦前に出来た校歌しかなく、当時生徒が集まったときに歌えるものがなかった。誰もが歌える歌をということで生徒歌を作ることになった。私も「あしたのぞめば遥かなる・・・」を作詞・作曲した。皆が出来るだけ歌いやすいような曲にしたつもりだ。このところ校歌祭に参加し、壇上で同窓生たちと歌うと、あの頃のことが思い出される。暖かく見守ってくれた奥田校長、坂本(博)、金指、小島(義)先生たちたち。文京は懐かしい想い出を一杯くれる。   戦時下のコーラスは心の糧

コーラスと出会ったのは、中学時代だ。大阪・豊中に住んでいたが、母をなくして、残された男3人兄弟を不憫に思った父親・親戚は蓄音機とレコードを買い与えてくれた。私は一人でビクターの赤レーベルのレコードに聞き浸った。好きなのはベートーベンの第6交響曲田園の第2楽章だった。音楽に興味を持つようになり、豊中中の5~6人の仲間とコーラスを始めた。特にシューベルトのドイツミサ曲から、Zum Gloria(栄光)やZum Sanctus(神聖)をよく歌った。高校は広島に進んだが、昭和19年には勤労動員になり、呉の海軍工廠の寮に入った。無味乾燥で将来の希望もなく、仲間と夜海岸で、ドイツ語でシューベルトや西洋民謡を歌い、戦争が終り生きていれば、好きな人生を送りたいと思った。20年4月に東京大学に入学したが、すぐ動員となり、博多から釜山へ。そこから列車で着いたところは北朝鮮豆満江の国境沿いの会寧だった。そこで航空整備兵として8月まで駐留した。終戦は清津で聞き、ソ連兵に追い立てられるように移動し、10月に仁川で部隊は解散。駅のプラットホームでその日が23日と知り、自分の20歳の誕生日だったことに気付いた。明日をも知れぬ日々で、コーラスは私の心の糧だった。   藤原歌劇団で合唱を学ぶkoukasai_0016

大学に復帰し昭和21年に藤原オペラ合唱団団員募集の新聞広告を見て、すぐに応募。藤原義江団長に面接し練習場に出入り始めた。当時は帝劇が舞台で、初めて行った日が、カルメンの戦後初の公演日だった。好きなカルメンで、胸がドキドキし、締め付けられるほど感激した。指揮はマンフレート・グルリット。ユダヤ人で日本に亡命し、この人が戦中戦後の日本のオペラの功労者とも言える。当時の日本人歌手も藤原団長始め四家文子、柴田睦陸さんなど錚々たる人たちが集まり熱気があった。団長には眼をかけてもらい、指導を受けたが、ドン・ジョバンニの初演のときに合唱指揮をしたのが忘れられない。教師になった後も時々巡業に参加したり、外国の好きな歌の訳を一緒に行った。私の訳した椿姫「乾杯の歌」は、世界名歌110曲集に収録されている。大学卒業後も、歌劇団にいたが、父親がちゃんと就職し結婚しなさいと言われ、教師の職を紹介され文京に赴任した。   60年続く椰子の実合唱団  西伊豆に松崎町と言う港町がある。今は道路が開通しているが、かっては陸の孤島と言われ、沼津から船でしか行けなかった。昭和26年ごろから陸路、海路で10時間かけ仲間で訪ねるようになった。目黒行人坂教会の聖歌隊や明治学院、伝染病研究所、文京から神谷君など、コーラスの好きな仲間が松崎町の小学校でコーラスの発表会を行い町の人に聞いてもらった。現地で受け入れをしていただいた医者の中江さん一家とは現在も続き4代のお付き合いとなる。年に一度浜辺に流れ着く椰子の実のようで、いつしか「椰子の実合唱団」となった。私は一緒に歌う一方で、合唱団を指導してきた。このコーラスは今も続いていて、もう60年近くになる。嬉しいことに80歳を迎えた傘寿の祝いに、松崎町の洋菓子店で記念のコンサートを開いてくれた。「椰子の実合唱団」は常に無伴奏合唱を行ってきたが、そのときはソロでピアノの弾き語りとなった。   「二声のための伴奏」に出会う

80歳を過ぎて、やっと求めていたものに出会った。コーラスは10代のときからだからもう70年になるが、常に無伴奏でやってきた。しかしある時「二声のための伴奏」に対面した。合唱には二声、四声、八声、それに交響楽団の付くのまで色々あるが、二声は一番純粋で、単純で、完全で省きようのない、最も歌いやすいものと言える。自然で、湧き出るように、皆で楽しく歌えるものがいい歌と感じるようになった。最後の公職(都立永福高校校長)を終えた後、縁があって、五反田でコアテラピーをお手伝いしている。これは合唱セラピーだが、患者さんたちが最も簡単に皆で歌えるように工夫しているうちに、この二声伴奏にたどり着いた。この編曲を出来るだけ沢山残したいと思う。   人は学ぶことを止めてはいけない

定年後日本オペレッタ協会にも属し、ブタペストのオペレッタ劇場で「微笑みの国」を上演し、現地の人にも喜んでいただいた。そのときの縁で、テノール歌手の佐藤一昭さんに現在レッスンを週1回受けている。この歳でベルディの歌曲を学ぶ人はいませんよと言われるが、私は人間は常に学ぶことが大切だと思っている。今日学んだことは、生活の中で必ず生かされてくる。それは明日へのエネルギーの糧とも言えるのではないかと思う。人は習うことをやめてしまっては駄目だ。歌、特にコーラスは、どんな楽器よりも人の心の琴線に響くもので、感動を与えてくれる。私はその世界で学ぶことができ、自分の人生が過ごせていることに、改めて感謝している。(国語、昭和26~32年)(談、構成・箙 紘矢)