赤坂正雄先生

人間は謙虚であれ

―先生は、文京高校の前身の東京市立三中の第二期生で、我々の大先輩にもあたりますね。
赤坂 私は台東区御徒町の生まれでね、上野駅近くの西町小学校(現、東上野2丁目)に通っていた。その担任が三中の先生と友人で勧められた。三中は昭和15年に開校したばかりで、いろいろな方面で優秀な生徒を募集していた。それで受験したわけ。
旧制3中時代に勤労動員を経験

ー当時の文京はいかがでしたか?
赤坂 入学した昭和16年は第二次大戦直前で、新しい中学として軍国教育には熱心だった。3年生の時に勤労動員が始まり、4年生の1学期からは志村の日本マグネシュームの工場へ行かされた。全寮制で、教科書を持って工場の寮に入り、勉強は仕事を終えた後、自習した。
―大学入試はあったのですか。
赤坂 20年3、4月の東京空襲の前で、2月頃にあった。それで合格したら、7月まではそのまま勤労動員。8月に今度は進学先の指示の場所へ動員。終戦になり、9月になってやっと茗荷谷の学校に集合した。
―筑波大の前身の東京高等師範に入学されたわけですが、英語の先生になろうという動機はなんですか?
赤坂 文京時代の1、2年生のときの担任の先生が良い先生で、その先生に憧れて、教師になろうと思った。戦局が厳しくなるにつれ、敵性言語と言うことでドンドン英語の授業が減っていった。週1時間とかね。それに少し反撥し、英語を教えようと思った面もある。
文京に赴任。懐かしい先生に再会

―最初の勤務地は北野高校ですね。
赤坂 昭和25年から5年間。昭和29年の夏に、文京で英語を教えていた同期の小島(義郎、二期B)君が竹早に異動になり、英語のポストに空きができた。小島君から電話で「奥田校長が呼んでいる」。自分の後釜に私を推薦したんだね。北野の校長に相談したら「あなたの母校の校長が欲しいと言えば、断れないよね」と送り出してくれた。当時はそんな時代でもあったんだね。
―文京に赴任された時の印象は?
赤坂 奥田校長始め、私が三中時代に教えていただいた懐かしい先生方に再会。坂本、田崎、渋谷、山下、竹村、黒岩、橘、長谷川先生・・・。終戦を境に、教育熱心な先生方が残ったね。校風は自由闊達、教員同士の風通しも良く、いい学校だった。
―そして11期を担任された
赤坂 文京に赴任して3年目に1年からあなた方の担任になり、卒業まで受け持ったね。その頃は文京にも慣れ、教師としても自信が付いてきた頃だ。英語は越川先生がリーディング、私が文法を担当した。
―生徒の印象はどうでしたか。
赤坂 まじめな生徒が多かったね。問題を起こすような子は見当たらず、やりやすかった。
「笑涯楽習」で最初の講義を

―特に印象に残る生徒はいますか。
赤坂 三遊亭圓窓の橋本八郎君かな。3年の時の保護者会でお母さんが「息子はラジオで落語ばかり聞いていて、その世界に進むと言っていますが・・・」と相談があった。私も落語の世界は少し知っていて「落語の世界は若くして売れる人もいれば、一生ウダツのあがらない人もいる。実力の世界で大変ですよ」と答えた。その時初めて落語家志望と知った。でも学校にいるときは一切その話はしなかったね。卒業後TBSの落語勉強会の会場で会ったのが初めてだね。その後は付き合いが続いている。
―文京落語研究会、笑涯楽習の顧問でもありますね。
赤坂 文京の落語研究グループが卒業後、平成13年に文落連(文京高校OB落語大好き連中)が結成され、圓窓師匠が以前から提唱している「笑涯楽習」を2年後から母校で始めた。
―第1回目は、赤坂先生の講義でしたね。赤坂 「落語に学ぼう。楽しい日本語と
処世訓」。受講者は最初は緊張気味だったが、受けは良かったよ。
―私も受講しましたが、落語に縁のある言葉を取り上げ、「「隠居」は新明解国語辞典によれば『「仕事や生計の責任者であることをやめ、好きなことをして暮らすこと(人)」なので、好きなことをせず、だらだらと無為に毎日を過ごすのは隠居ではない」と、我々世代に警告を与えましたね。先生は落語以外にも歌舞伎に造詣が深いと聞きましたが・・・。
歌舞伎は友人やラジオなどから興味を

赤坂 10代、20代の楽しみは、ラジオを聴くぐらい。落語が盛んで良く聴いた。その中に声色(こわいろ)があってね。声色は歌舞伎の名優の当たり芸をまねる芸でね、戦後になり、よく東劇や三越劇場に歌舞伎を見に行った。しかし歌舞伎は知識がないと面白くない。同じクラスに色川武大君、作家になった阿佐田哲也がいて、彼は歌舞伎、寄席、映画などその辺の事情を良く知っていて教えてもらった。それからだんだんはまり込んで行った。鈴本のプログラムを集めていたが、円窓が遊びに来たときにプレゼントした。彼の本に「教師は落語を勉強しなくてはいけない」なんて書いてあったけどね。
―ご贔屓の役者はどなたですか?
赤坂 戦後になり、東劇の4階の立見席へよく行った。菊五郎、幸四郎が昭和24年に亡くなり、若手が活躍するようになった。特に誰ということなく機会があれば見ていた。。落語家では先ず「志ん生」と圓窓の師匠「円生」が好きだった。
―11期の担任の先生は、後藤神戸先生、越川先生、長谷川次郎先生がお亡くなりになってますが、どんな先生でしたか。
赤坂 長谷川先生は、理科大出身の物理の先生。私も2、3年生のとき授業を受けたけど、当時20歳ぐらいで学生服だったような記憶がありますね。明るい先生で、76年に在籍中に亡くなられました。34年間文京一筋の先生でした。越川先生は大学の英文科の一回り先輩。。軍隊に召集された後、昭和22年に文京に赴任され25年間勤務されました。よく気が回り、教えていただくことが多かったですね。後藤先生は私の家の近くにお住まいでお酒の好きな先生でしたね。東大中国語科の卒業で、中国語はペラペラ。いつもニコニコでしたが一本気な先生でした。野球部の部長を長くやってました。28年間勤め、定年後は滝野川学園で教えていられたが、平成2年になくなられました。私は文京に15年在籍し、その後両国高に移り20年いて65歳で引退しました。
人は分をわきまえることが大切

―先生は草創期の同窓会で大変お骨折りをされましたが、最近の活動はどうですか。
赤坂 色々な都立高の同窓会を知っているが、40頁以上の会報誌(を毎年発行しているところは少ないね。よく活動しているね。
―11期の会合には出席いただいてます。
赤坂 担任していたクラスの早瀬(義夫)が若くして事故で死んだ。彼を偲ぶクラス会が毎年12月に行われてるね。それに同期会も活発になっているね。
―母校や11期生へのメッセージは。
赤坂 今でも文京での教師時代は楽しかった思い出が一杯。3年間担任し卒業式が終わり送り出すときに、「ああ、無事にみんな送り出せて良かった」という気持ちになる。その印象が一番強いね。教え子はいつまでたっても教え子だね。
人は分をわきまえなければいけない。どこで誰が見ているか、聞いているか判らないのだから、言動にはよほど注意しなければいけない。私はこれまで生徒に謙虚な心忘れるなと言ってきたが、それは今でも変わらない。
(5月30日、浦和のご自宅で。箙 紘矢)