橘 高信先生

 今でも 「如何に生くべきか」 を考える

tachi[1]- 先生は文京在任中に軍隊に召集され、戦場に行かれたそうですね。
橘 昭和18年9月に当時の豊島中学校に就職し、翌年の19年6月に召集された。何人も学校から召集を受けていた。当時は戦局は良く判らず、とうとう来たかと観念したよ。   - 配属はどちらでしたか?
橘 佐賀県の通信隊で少年兵としてモールス信号の訓練を3ヶ月受けた。その後、予備士官候補生として、熊本県の士官学校に半年、20年5月に四国善通寺、和歌山と配属になり、最後は高知県だった。米軍が上陸するのは高知の海岸からと言image002われ、上陸してきた敵と交戦するために山中に陣を構えた。何回か爆撃にあったが、結局終戦を迎えた。天皇の玉音放送は山中でラジオがガーガーと良く聞こえず、直ぐには判らなかった。そのうち中隊長と「戦争は終わった」と判り、兵隊に告げ部隊を解散。私は9月10日に東京に戻ったが、焼け野原に自分の家が残っていた。玄関を入ったら父親がビックリした顔をしたのを今でも覚えている。   軍隊へ行ったが無事に復員
- 随分早い復員でしたね。
橘 何年も帰れなかった人も多く、自分はついていた。当時は早く就職し、それも補充のきかない職業は召集が遅れるのではと、教師になろうと思った。在学中に満州の奉天(現、瀋陽)の日系士官学校での教鞭の話があったが、痩せ身の私では満州の冬の寒さは無理だろうと断った。そしたら友人が川島校長(源司。初代校長)を紹介してくれ、お会いしたら「明日から来てくれ」 (笑)。 当時大学は戦時対応で10月卒業。その前の9月に学生服で教師として着任した。また我々は大陸南部、南京への配属要員だったが、海上は時すでに米国潜水艦に支配されていて、大陸へ出兵できなかった。我々の前の人たちは、大陸の戦線に配属され帰らぬ人になった方も多かった。それで四国には最後は配属されたが、敵兵は上陸しなかった。随分運に助けられ、しかも早めに復員できた。

- 戻ったときの文京は?
橘 20年9月20日に学校に行ったら、焼け野原でコンクリート棟だけ残っていた。このときは校長は野口先生(彰。2代校長)で、奥田(行信。3代校長)、河野(孝充。国語)、坂本(博司。国語)、菅野(二郎。日本史)先生に再会した。兎も角その焼け残ったコンクリート棟を補修して授業を再開しようと、近隣の小中学校から机や椅子を分けてもらい、窓なども貰って嵌め込み、雨漏り防止に屋根を直したりと、教師生徒一丸となって頑張った。教科書もばらばらで、先生の頭数も足らず、自分たちが教えられることを手分けして授業をした。私は社会の他に、国語・漢文・英語。柔道もやっていたので体育で柔道を教えたね。   和辻哲郎先生に引かれ倫理を学ぶ

- 東大で倫理を勉強しようという動機はなんだったのですか?
橘 私は東京に生まれ、台東区立谷中小学校、早稲田中学、旧制浦和高校へ進んだ。大学へは和辻哲郎っ先生の諸著作、中でも倫理学への手引書、そして「倫理学上巻」を読みこの先生に学びたいと東大に入学した。しかし実際に講義を受けると、話は下手で面白くない。だから先生の本を読みまくった。研究室で話すと発想が尋常でない。凄い方でした。我々が学んでいる間に「倫理学中・下巻」を完成された。

- 戦後、先生の強化の道徳倫理はなくなりました・・・。
橘 奥田教頭に免許がなくなったと相談したら、これからは世界史と言う科目が出来るので、それを担当して欲しいと言われた。戦前の歴史は日本史、東洋史、西洋史だったが、戦後は日本史と世界史になった。元々倫理で西洋思想史の勉強はしたので、世界史を受け持つことになった。その時点で世界史の教科書はなく、学問的にも確立していない。教え方について、大学から西洋六割に東洋四割とか言ってくる。しかし世界史は世界的な大きな視野で歴史を考えるもので、新しい分野で我々高校教師が創り出すものと押し切った。「世界史の教え方」と言う本も出版して、やはり日本史のリーダー格だった菅野先生と歩調をあわせて、文京で「世界史・日本史の公開授業」を開催したりしたよ。
- 戦後色々なご苦労があって、昭和28年モデル校舎が完成・・・。

橘 関口台、元町小学校と校舎を転々とし教師も生徒も大変苦労したが、文部省が支援し昭和28年モデル校舎が完成した。設計時に、当時は珍しい視聴覚教室を作ることになり、長谷川先生(次郎。物理。)と担当になった。設計家の話では階段教室にすべきと言う。役所に階段教室を頼んだが、予算の都合で不可。そこで椅子の高さを少しずつ変え階段状にした。映写機の技術も勉強させられた。尤も当時は上映する映画が少なかったけど・・・。   今でも考えるのが好き

- 24年間在籍されました。
橘 兵隊に行った1年4ヶ月を入れるとそうなるね。昭和42年に桜町高に移りその後杉並高を経て、千歳丘高、武蔵丘高で校長を務め退職した。校長は教員との関係が大変だが、大過なく終えた。その後東京都教育研究所で教職員のカウンセラーをし、国士舘短大で哲学倫理を教え80歳で引退した。

- 現在は悠々自適ですか。   橘 退職して9年になるが、子供3人も自立し孫も7人いる。やはり考えるのが好きで、「人生如何に生くべきか」など考えているよ。後は、時々美術展を見に行くね。日本画が好きで、田中一村、小倉遊亀などが特に好きだね。こう見えても以前は美術部の顧問だったしね。

- 文京で最も印象的なことは・・・。
橘 たくさんあるが奥田校長だね。昔風の一番立派な先生。威張らない。気張らない。体裁を繕わない。教育については這い蹲ってもやる。校長のポストに拘らない。便所掃除でも率先してやる。文京創立の一人として、この学校を守り続けてゆくことを天職と考えていた人でした。   教育も創造。生徒の目を光らすのが教師の務め
- 長く高校教育に携わったわけですが、世代の違いとかありますか?
橘 戦後は何しろ校舎もない、教科書もない、無から有を作り出す感じで先生も生徒も必死だった。また創立の意気込みもあり、「小石川何するものぞ」に燃え、業績も出した。部活でも山岳部や美術部の顧問をやったり、当時流行りだしたギター部や、女子には琴部を作った。これからは英語の時代だと言うことで、原書読書会や牧師を呼んで聖書研究会などもしたね。今はカリキュラムなど方法的に複雑になった。生徒を引っ張って行く型破りな教師が少なくなった。あるがままでなく、新鮮で興味深い発想が教育にも求められる。そうすると生徒の目が光ってくる。文京もそうなって欲しい。                                         (7月7日、豊島区西池袋のご自宅で。 箙紘夫)