太田 敏夫先生

昭和20年度の通信簿

oota1[1]1945年4月から46年3月まで、わたしは都立豊島中学校の1年生であった。その1学期は大戦の最末期、「4.12 入学式を空襲の警報中に実施」「4.13 夜に入って再び空襲、校舎全焼」(以上「新校舎落成-1953-記念誌」中の「本校の歴史概要」による。)という日々で始まった。上級生は学徒動員により工場で働いていた。わたしたち新入生はまず焼け跡整理から中学校生活を始めた。

5月25日には空襲によって小石川竹早町(現文京区小石川5丁目)のわが家は全焼、その翌日から母は、東大病院入院、父は出勤、昼間防空壕に残されるのは、5歳の弟と13歳になったばかりのわたし。配給物を受け取るために行列に並んだり、昼の食事ともいえない食べ物を用意するのがわたしの仕事であったから、学校に通うことはできなくなった。

8月15日に敗戦。9月の2学期は戦後の混乱の中で始まった。わが家は馬込(太田区)の親戚の一室を借りて生活していた。「11.5 小石川関口台町小学校内に分教場設置」(同前期による。)とあるように教室は移転する。この月の半ば頃から、わたしは再び中学生に戻る。私鉄、国鉄、都電を乗り継いで、超満員の通学を始めた時、同期生は代数・幾何なども進んでいて、算数の世界にとどまっていたわたしには皆目わからなかった。記憶がまちがっていなければ、通い始めた翌日から中間試験だったはずである。11月半ばで遅いのだが、移転が関係しているのではないだろうか。

「昭和21.2.8 文京区元町2の39 元町小学校内に本校移転」(同前)、わたしたちは机、椅子を運んで引越しをした。この後5年余りをここで学び、文京高校を卒業するのである。

前置きが長くなったが、20年度の通信簿はわら半紙半折の大きさで、横長、ガリ版印刷である。今は2つに折った折り目から切れかかっている。板橋区前野町で水害にあい、文字もにじんでいる。

左上から「昭和20年度 通知表」とあり、右側に「東京都立豊島中学校」その下に「第 学年 組生徒_________」とある。空欄にはわたしの字で「一、A、太田敏夫」と書き入れてある。名前の最後の位置の上方に「No.__」とあって、「37」とわたしのペンでいれてある。(わたしのペンのインクの色と担任のそれは少し違うし、字体も違う。)オオタが37番なのは、出席簿の最後には付けたされたのであろう。

その下の学科の欄は一番左に国民科があり、それは修身・国語・地理に分かれ、国語はさらに国語・漢文・作文文法の3つに分けられている。理数科は数学が数一・数二、物象が一、二、さらに生物である。次の体錬科は3つの欄に分けてあるが、真中の欄に体操とあって、左も右も空欄になっている。前年度の通知表では軍事訓練を意味する文字が入っていたのだろう。「体錬」という語は、体操・教錬の2語は縮めたものであろう。次は芸術家、音楽・書道・図画・工作。ついで外国語は英一、英二。最後に修錬というのがあるが、内容はよくっわからない。(2年の通知表では作業・修錬と2欄にわけられているが、評価は2欄の間に線上に1つだけ記されている。)

さて、実際にどのような「点がついている」のであろうか。体操の左右の2つの空欄を除くと19欄になるが、そのうち10欄に評価が書かれている。わたしのには2学期と学年とにだけ記入されている。同級生のには1学期の記入もあるのだと思う。(3学期の評価は2,3年の通知表でも空欄なので、1年次も空欄であろう。)

評価はほとんど良と可である。2学期の数二が優を消して良になっているのと、学年の修錬がただ一つ優になっているので、優良可があるは確かである。(中3の通知表に秀があるので、秀優良可であったかもしれない。因みに5.4.3.2.1の評価になったのは高2からである。)

各教科の右側に総計・平均・席次・及落があり、その右に出欠表の欄がある。総計は各学期も学年も、つもり全欄記入なく、平均は「良」、席次「中」と記入され、及落については学年の欄にわたしの字らしいがほとんど読めないくらい薄く、「及」の字がある。担任に確かめて、自分で記入したのだろうか。

出欠欄に移るが、1学期はすべて空欄であると先に書いた。2学期の欄に授業日数175、忌引0、欠席146、遅刻0、早退1、欠課0と書かれている。3学期にも学科にも出欠に関する記入は全くない。授業日数というの出席すべき日数というのに等しいと思うのだが、175日というのは2学期だけではありえない。学科全体の日数は2年では210日、3年では238日とそれぞれの通知表に記されているから、学年通しての日数としては少なすぎる。1・2学期の合計であろう。欠席日数の146日は、9月から12月までの総日数が122日であるから、2学期だけの欠席日数ではありえない。175マイナス146は29日になる。11月の後半と12月の出席日数として妥当な数である。とすれば、146日から4月と5月25日までの出席日数を引いたのが正しい欠席数字かもしれない。

いずれにしても6月7月を全休し、9月10月も全休したのであるから、平時であれば進級の基準に達しなかったのは確かであろう。

通知表の一番下には左側に担任と保護者が印を押す欄があり、2・3学期に担任印が、2学期に保護者印がある。その右側に通信欄があって、すべてが終わる。

どこにもない校長氏名、担任氏名は、下の欄外にわたしの字で記してあった。

太田敏夫先生のご紹介
国語、昭和45年~平成3年。3期生(A組)。
略歴   昭和26年3月文京高校卒業(3期A)。早稲田大学第二文学部卒。
在学中、フェニックス書院、講談社で国語教科書編纂に従事。
昭和30年文京区立第九中学校教諭(国語)
昭和39年都立牛込商業教諭(国語)
昭和45年から文京高校教諭(国語)。   その後嘱託として以降平成13年まで30年間母校で教壇に立つかたわら、同窓会会計として同窓会を支えられた。
趣味は囲碁で今でも文京教師仲間と週1回白黒を交わす。