第五期 復興期(昭和57~平成4年)

創立40周年記念誌の発行

昭和55年は本校創立40周年に当たる。森章校長(10代 昭和52~57年の下で、同窓生の西岡弘先生(一期C)、太田敏夫先生(3期A)などの編集で創立40周年記念誌が発行された。創設以来校舎の焼失、学舎の移転、創設の地での復活と苦難の道を歩み、また学校群制度や全校封鎖などの嵐もあり、記念誌はその激動の歴史を留める母校の歴史の貴重な情報集となった。「校訓『至誠一貫』は大方針、軍国主義時代の解釈とそれによる教育とは自ずと変わったが、人間教育の目標には変わりはない。戦後自立できる誠実な人間を目指した教育は、明るくのびのびとして穏やかな校風を育ててきた。この伝統を尊重し生徒の創造的活動にどう結びつけるかと、教職員一同は工夫と努力を続けている。」と森校長は結んでいる。その精神は今も続いている。

入試制度改革、グループ合同選抜制度に(昭和57年)

昭和42年から実施されていた「学校群制」が見直され、昭和57年から「グループ合同選抜制度」が実施された(古瀬敦11代校長、昭和57~60年)。この制度は第四学区を二つのグループに分け文京は41グループに属した。「41グループ」は小石川・竹早・向丘・豊島・文京・城北・北の7校。「42グループ」は北園・板橋・高島・大山・北野・志村の6校。学校群制度では学校群に合格しながら志望する学校に進学できないという問題が生じたが、グループ制では第一志望に挑戦し合格すればその学校に入学できるようになった。この制度は平成5年度まで実施された。

校舎全面改築プロジェクト(昭和62年)

昭和62年4月校舎全面改築が決定した(紺野嘉夫12代校長、昭和60~平成元年)。当時の校舎は昭和28年に戦後都立高校として初めての鉄筋コンクリート建てとして「文部省のモデルスクール」として建築された。鉄筋コンクリートの耐用年数は本来60年であるが、戦後復興期の建築のために鉄筋・コンクリート等素材が大変弱く建て直しが必要となった。翌63年10月に工事着工し、平成4年完成した。これが現在の校舎である。