同窓会ニュース 会則 同窓会誌「紫筍」 役員紹介 住所変更届け 関連リンク クラス会・同期会報告 OBネット 協賛CM
    HOME>恩師からの便り
  尾崎恵子先生 赤坂正雄先生 遊川益次先生
清水照夫先生
平成元年〜平成12年
英語
昭和45年〜平成3年。
国語
3期生(A組)
橘 高信先生
(紫筍50号より)
昭和18年〜昭和43年 
倫理・世界史

山浦 徳明先生
(紫筍50号より)
34期G組担任
 昭和49年〜58年 体育

外川 裕一先生
(紫筍50号より)
49期D組担任
昭和62年〜平成11年 
地歴(日本史)
清水照夫先生 太田 敏夫先生 橘 高信先生 山浦 徳明先生 外川 裕一先生
 社会人の勉強、外国での勉強の進め
 この度、編集長からのご依頼を受け、私の外国での経験を書いてみます。文京高校には1973年から1987年までお世話になりました。英語を教えること、英語についての知識、英語を使った活動を統合するような活動をしたいと考え、1990年に都立高校を退職しました。
都立高校での職と関係のある勉強、すなわち、イギリスのエジンバラ大学大学院応用言語学科での勉強から始めました。応用言語学とは、エジンバラ大学でも他の所でもほとんど英語教授法という意味で使われています。1年しか滞在しませんでしたが、スコットランドのエジンバラの壮大、荘厳な市街は、イギリスで最も印象深く、愛着のある場所になりました。外国とは言え、同じコースに他に日本人が3人もいましたし、40名以上の仲間のほとんどが英語や外国語の教師だったので、特に目新しい環境ではありませんでした。1年間に中小の論文を数本書かねばならず、一番苦労したのがいかに速く本や論文を読むかでした。自分の論文を書く前に多くの文献を読まねばなりません。エジンバラで最も興味を持ったのは、英語を教えることにも理論言語学にもつながる文法でした。
例年になく雪が多く、凍てつく寒さの中で過ごした1年が過ぎる頃には、英語教師として何が教えるのに役立つかという視点で勉強するのではなく、言語学、心理学を探求する者として、実用性を求めずに純粋にあるいは理論的に知識を追求したいと考えるようになりました。それで、心理学が盛んな南イングランドの南端のサセックス大学に移りました。
カルチャーショックなどなく、経験することがほとんど予想どおりだったのはおそらく年令のせいで、もっと若かったらいろいろなことが新鮮に映ったのではないでしょうか。
サセックス大学大学院では、認知科学・コンピュータ科学学群、言語学研究部門に籍を置きました。コンピュータ科学、心理学、哲学を研究している学生、研究者といっしょに勉強できることが非常なメリットでした。サセックス大学は、色々な意味でイギリスで最もラディカルな大学のひとつで、学際的な研究が奨励され、既存の領域間の境界を踏み越えて新しい分野を開拓する勇気ある人々がおり、学問的にも大学運営に関しても徹底的に民主的であろうとする機運に溢れていました。私が最も身を置きたいと思うような環境でした。この大学で勉強を始めた時にはすでに、その後の研究課題となっている「黙読の中の音声的過程」を研究しようと決めていました。
サセックス大学の「認知心理学」の授業が強く印象に残っています。エジンバラでは英語教育に役立たせるという方向性で、授業の内容には馴染みがあったのに対し、サセックス大学では人間の知覚、認知を解明しようという立場に切り替えたので、仲間もほとんどがイギリス人で外国語の教師などはひとりもいない授業もありました。引越しが遅れて最初に出席した「認知心理学」で、「視覚のコンピュータモデル」をやっており、最初の2回ほどはまったく理解できないも同然でした。しかし、大変強く惹きつけられ、ぜひこれを自分の専門にしたいと思いました。自分自身の強い興味に支えられてなんとかその科目にパスすることができ、意欲があればスタートの時知識がなくても勉強の成果を上げられるものだという貴重な経験をしました。このことは、後に日本の大学で教えるようになって、外国人留学生に接するのに役立ちました。英文科1年の日本語で行われる「英語精読」の授業に2人の留学生がおり、日本語も英語もおぼつかない彼女達は、1年の最後の試験でも成績が芳しくありませんでした。しかし、熱心な態度、強い知的好奇心から、この留学生達は長期的には大成するに違いないと確信しました。私の期待に違わず、その内のひとりは修士課程に進み、日本の企業に就職しました。意欲のある学生がすぐには勉強の成果が上げられない時、教員は暖かく見守ってあげるべきだということを、私の学生、教員の経験から学びました。
しかし、サセックス時代に公私共に大きな問題が起こり、博士論文作成が遅れました。イギリスの高等教育拡張政策により、大学の研究者、学生の数がどんどん増えて設備も不足し、言語学の学生である私は、心理学の教員、学生と実験室を取り合うような事態になりました。また、両親が相次いで病気になり、長期、短期に3回も休学せざるを得ませんでした。それでもなんとか博士論文を完成し、審査にも無事に合格しました。
 その後、カナダのモントリオール大学老人病研究所研究センターで、「心内辞書プロジェクトグループ」のポスドク(博士研究員)の職を得ました。サセックスでの研究がそのまま続行でき、うれしく思いました。また、採用に当たっても、国籍、性別、年令に関係なく、私の提出した研究計画が認められたので、感激しました。日本でこのような経験をすることはないでしょう。モントリオールは、第一にフランス語圏、第二に英語圏で、私の若い時なら大変喜ぶような多言語の環境でしたが、すでに私の第一の興味はいかに心理言語学的な実験を成功させるかで、それほどフランス語の習得に熱心になりませんでした。フランス語を母語とする研究者や外国人とは英語で話ができたので、フランス語を使う必要もあまりなかったのです。研究対象は主に日本語の漢字で、その認知、理解過程を調べようとしていました。カナダでの研究は短期間で終えねばならなくなりました。私の専門とは関係のない仕事のために、日本に帰らねばならない事情ができたからです。
 2001年に帰国し、その後、昨年の「紫筍」に書きましたような生活を送っております。
 
人間は謙虚であれ 
 赤坂正雄先生
 ―先生は、文京高校の前身の東京市立三中の第二期生で、我々の大先輩にもあたりますね。
 赤坂 私は台東区御徒町の生まれでね、上野駅近くの西町小学校(現、東上野2丁目)に通っていた。その担任が三中の先生と友人で勧められた。三中は昭和15年に開校したばかりで、いろいろな方面で優秀な生徒を募集していた。それで受験したわけ。
 旧制3中時代に勤労動員を経験 

ー当時の文京はいかがでしたか?
 赤坂 入学した昭和16年は第二次大戦直前で、新しい中学として軍国教育には熱心だった。3年生の時に勤労動員が始まり、4年生の1学期からは志村の日本マグネシュームの工場へ行かされた。全寮制で、教科書を持って工場の寮に入り、勉強は仕事を終えた後、自習した。
 ―大学入試はあったのですか。
 赤坂 20年3、4月の東京空襲の前で、2月頃にあった。それで合格したら、7月まではそのまま勤労動員。8月に今度は進学先の指示の場所へ動員。終戦になり、9月になってやっと茗荷谷の学校に集合した。
 ―筑波大の前身の東京高等師範に入学されたわけですが、英語の先生になろうという動機はなんですか?
 赤坂 文京時代の1、2年生のときの担任の先生が良い先生で、その先生に憧れて、教師になろうと思った。戦局が厳しくなるにつれ、敵性言語と言うことでドンドン英語の授業が減っていった。週1時間とかね。それに少し反撥し、英語を教えようと思った面もある。
 文京に赴任。懐かしい先生に再会
 
―最初の勤務地は北野高校ですね。
 赤坂 昭和25年から5年間。昭和29年の夏に、文京で英語を教えていた同期の小島(義郎、二期B)君が竹早に異動になり、英語のポストに空きができた。小島君から電話で「奥田校長が呼んでいる」。自分の後釜に私を推薦したんだね。北野の校長に相談したら「あなたの母校の校長が欲しいと言えば、断れないよね」と送り出してくれた。当時はそんな時代でもあったんだね。
 ―文京に赴任された時の印象は?
 赤坂 奥田校長始め、私が三中時代に教えていただいた懐かしい先生方に再会。坂本、田崎、渋谷、山下、竹村、黒岩、橘、長谷川先生・・・。終戦を境に、教育熱心な先生方が残ったね。校風は自由闊達、教員同士の風通しも良く、いい学校だった。
 ―そして11期を担任された
 赤坂 文京に赴任して3年目に1年からあなた方の担任になり、卒業まで受け持ったね。その頃は文京にも慣れ、教師としても自信が付いてきた頃だ。英語は越川先生がリーディング、私が文法を担当した。 
―生徒の印象はどうでしたか。
 赤坂 まじめな生徒が多かったね。問題を起こすような子は見当たらず、やりやすかった。
 「笑涯楽習」で最初の講義を

―特に印象に残る生徒はいますか。
 赤坂 三遊亭圓窓の橋本八郎君かな。3年の時の保護者会でお母さんが「息子はラジオで落語ばかり聞いていて、その世界に進むと言っていますが・・・」と相談があった。私も落語の世界は少し知っていて「落語の世界は若くして売れる人もいれば、一生ウダツのあがらない人もいる。実力の世界で大変ですよ」と答えた。その時初めて落語家志望と知った。でも学校にいるときは一切その話はしなかったね。卒業後TBSの落語勉強会の会場で会ったのが初めてだね。その後は付き合いが続いている。
 ―文京落語研究会、笑涯楽習の顧問でもありますね。
 赤坂 文京の落語研究グループが卒業後、平成13年に文落連(文京高校OB落語大好き連中)が結成され、圓窓師匠が以前から提唱している「笑涯楽習」を2年後から母校で始めた。
―第1回目は、赤坂先生の講義でしたね。赤坂 「落語に学ぼう。楽しい日本語と
処世訓」。受講者は最初は緊張気味だったが、受けは良かったよ。
 ―私も受講しましたが、落語に縁のある言葉を取り上げ、「「隠居」は新明解国語辞典によれば『「仕事や生計の責任者であることをやめ、好きなことをして暮らすこと(人)」なので、好きなことをせず、だらだらと無為に毎日を過ごすのは隠居ではない」と、我々世代に警告を与えましたね。先生は落語以外にも歌舞伎に造詣が深いと聞きましたが・・・。
 歌舞伎は友人やラジオなどから興味を

赤坂 10代、20代の楽しみは、ラジオを聴くぐらい。落語が盛んで良く聴いた。その中に声色(こわいろ)があってね。声色は歌舞伎の名優の当たり芸をまねる芸でね、戦後になり、よく東劇や三越劇場に歌舞伎を見に行った。しかし歌舞伎は知識がないと面白くない。同じクラスに色川武大君、作家になった阿佐田哲也がいて、彼は歌舞伎、寄席、映画などその辺の事情を良く知っていて教えてもらった。それからだんだんはまり込んで行った。鈴本のプログラムを集めていたが、円窓が遊びに来たときにプレゼントした。彼の本に「教師は落語を勉強しなくてはいけない」なんて書いてあったけどね。
 ―ご贔屓の役者はどなたですか?
 赤坂 戦後になり、東劇の4階の立見席へよく行った。菊五郎、幸四郎が昭和24年に亡くなり、若手が活躍するようになった。特に誰ということなく機会があれば見ていた。。落語家では先ず「志ん生」と圓窓の師匠「円生」が好きだった。
 ―11期の担任の先生は、後藤神戸先生、越川先生、長谷川次郎先生がお亡くなりになってますが、どんな先生でしたか。
 赤坂 長谷川先生は、理科大出身の物理の先生。私も2、3年生のとき授業を受けたけど、当時20歳ぐらいで学生服だったような記憶がありますね。明るい先生で、76年に在籍中に亡くなられました。34年間文京一筋の先生でした。越川先生は大学の英文科の一回り先輩。。軍隊に召集された後、昭和22年に文京に赴任され25年間勤務されました。よく気が回り、教えていただくことが多かったですね。後藤先生は私の家の近くにお住まいでお酒の好きな先生でしたね。東大中国語科の卒業で、中国語はペラペラ。いつもニコニコでしたが一本気な先生でした。野球部の部長を長くやってました。28年間勤め、定年後は滝野川学園で教えていられたが、平成2年になくなられました。私は文京に15年在籍し、その後両国高に移り20年いて65歳で引退しました。
 人は分をわきまえることが大切 

 ―先生は草創期の同窓会で大変お骨折りをされましたが、最近の活動はどうですか。
 赤坂 色々な都立高の同窓会を知っているが、40頁以上の会報誌(を毎年発行しているところは少ないね。よく活動しているね。
―11期の会合には出席いただいてます。
赤坂 担任していたクラスの早瀬(義夫)が若くして事故で死んだ。彼を偲ぶクラス会が毎年12月に行われてるね。それに同期会も活発になっているね。
 ―母校や11期生へのメッセージは。
赤坂 今でも文京での教師時代は楽しかった思い出が一杯。3年間担任し卒業式が終わり送り出すときに、「ああ、無事にみんな送り出せて良かった」という気持ちになる。その印象が一番強いね。教え子はいつまでたっても教え子だね。
人は分をわきまえなければいけない。どこで誰が見ているか、聞いているか判らないのだから、言動にはよほど注意しなければいけない。私はこれまで生徒に謙虚な心忘れるなと言ってきたが、それは今でも変わらない。
(5月30日、浦和のご自宅で。箙 紘矢)
 コーラスと私
 遊川 益次
 コーラスを聴くと自然に体が反応する。創部して間もない音楽部のコーラスを耳にし、築山先生に混じって指導するようになった。昭和26年、文京の国語教師として初めて教壇に立った直後のことだった。
文京は懐かしい思い出が一杯

当時のことは懐かしいが、混声合唱でよく練習した。ピクニックなどにも出かけ、そこでも歌ったものだ。文京は戦前に出来た校歌しかなく、当時生徒が集まったときに歌えるものがなかった。誰もが歌える歌をということで生徒歌を作ることになった。私も「あしたのぞめば遥かなる・・・」を作詞・作曲した。皆が出来るだけ歌いやすいような曲にしたつもりだ。このところ校歌祭に参加し、壇上で同窓生たちと歌うと、あの頃のことが思い出される。暖かく見守ってくれた奥田校長、坂本(博)、金指、小島(義)先生たちたち。文京は懐かしい想い出を一杯くれる。
 戦時下のコーラスは心の糧

コーラスと出会ったのは、中学時代だ。大阪・豊中に住んでいたが、母をなくして、残された男3人兄弟を不憫に思った父親・親戚は蓄音機とレコードを買い与えてくれた。私は一人でビクターの赤レーベルのレコードに聞き浸った。好きなのはベートーベンの第6交響曲田園の第2楽章だった。音楽に興味を持つようになり、豊中中の5〜6人の仲間とコーラスを始めた。特にシューベルトのドイツミサ曲から、Zum Gloria(栄光)やZum Sanctus(神聖)をよく歌った。高校は広島に進んだが、昭和19年には勤労動員になり、呉の海軍工廠の寮に入った。無味乾燥で将来の希望もなく、仲間と夜海岸で、ドイツ語でシューベルトや西洋民謡を歌い、戦争が終り生きていれば、好きな人生を送りたいと思った。20年4月に東京大学に入学したが、すぐ動員となり、博多から釜山へ。そこから列車で着いたところは北朝鮮豆満江の国境沿いの会寧だった。そこで航空整備兵として8月まで駐留した。終戦は清津で聞き、ソ連兵に追い立てられるように移動し、10月に仁川で部隊は解散。駅のプラットホームでその日が23日と知り、自分の20歳の誕生日だったことに気付いた。明日をも知れぬ日々で、コーラスは私の心の糧だった。
 藤原歌劇団で合唱を学ぶ

大学に復帰し昭和21年に藤原オペラ合唱団団員募集の新聞広告を見て、すぐに応募。藤原義江団長に面接し練習場に出入り始めた。当時は帝劇が舞台で、初めて行った日が、カルメンの戦後初の公演日だった。好きなカルメンで、胸がドキドキし、締め付けられるほど感激した。指揮はマンフレート・グルリット。ユダヤ人で日本に亡命し、この人が戦中戦後の日本のオペラの功労者とも言える。当時の日本人歌手も藤原団長始め四家文子、柴田睦陸さんなど錚々たる人たちが集まり熱気があった。団長には眼をかけてもらい、指導を受けたが、ドン・ジョバンニの初演のときに合唱指揮をしたのが忘れられない。教師になった後も時々巡業に参加したり、外国の好きな歌の訳を一緒に行った。私の訳した椿姫「乾杯の歌」は、世界名歌110曲集に収録されている。大学卒業後も、歌劇団にいたが、父親がちゃんと就職し結婚しなさいと言われ、教師の職を紹介され文京に赴任した。
 60年続く椰子の実合唱団
西伊豆に松崎町と言う港町がある。今は道路が開通しているが、かっては陸の孤島と言われ、沼津から船でしか行けなかった。昭和26年ごろから陸路、海路で10時間かけ仲間で訪ねるようになった。目黒行人坂教会の聖歌隊や明治学院、伝染病研究所、文京から神谷君など、コーラスの好きな仲間が松崎町の小学校でコーラスの発表会を行い町の人に聞いてもらった。現地で受け入れをしていただいた医者の中江さん一家とは現在も続き4代のお付き合いとなる。年に一度浜辺に流れ着く椰子の実のようで、いつしか「椰子の実合唱団」となった。私は一緒に歌う一方で、合唱団を指導してきた。このコーラスは今も続いていて、もう60年近くになる。嬉しいことに80歳を迎えた傘寿の祝いに、松崎町の洋菓子店で記念のコンサートを開いてくれた。「椰子の実合唱団」は常に無伴奏合唱を行ってきたが、そのときはソロでピアノの弾き語りとなった。
 「二声のための伴奏」に出会う

80歳を過ぎて、やっと求めていたものに出会った。コーラスは10代のときからだからもう70年になるが、常に無伴奏でやってきた。しかしある時「二声のための伴奏」に対面した。合唱には二声、四声、八声、それに交響楽団の付くのまで色々あるが、二声は一番純粋で、単純で、完全で省きようのない、最も歌いやすいものと言える。自然で、湧き出るように、皆で楽しく歌えるものがいい歌と感じるようになった。最後の公職(都立永福高校校長)を終えた後、縁があって、五反田でコアテラピーをお手伝いしている。これは合唱セラピーだが、患者さんたちが最も簡単に皆で歌えるように工夫しているうちに、この二声伴奏にたどり着いた。この編曲を出来るだけ沢山残したいと思う。
 人は学ぶことを止めてはいけない

定年後日本オペレッタ協会にも属し、ブタペストのオペレッタ劇場で「微笑みの国」を上演し、現地の人にも喜んでいただいた。そのときの縁で、テノール歌手の佐藤一昭さんに現在レッスンを週1回受けている。この歳でベルディの歌曲を学ぶ人はいませんよと言われるが、私は人間は常に学ぶことが大切だと思っている。今日学んだことは、生活の中で必ず生かされてくる。それは明日へのエネルギーの糧とも言えるのではないかと思う。人は習うことをやめてしまっては駄目だ。歌、特にコーラスは、どんな楽器よりも人の心の琴線に響くもので、感動を与えてくれる。私はその世界で学ぶことができ、自分の人生が過ごせていることに、改めて感謝している。(国語、昭和26〜32年)(談、構成・箙 紘矢)
山小屋日記「電気のある生活」
清水照夫
最近、山に出かけて感じることは、中高年者は依然と多いが、百名山ブームは下火になったことだ。経済の好景気についても言えることではあるが、長期にわたるブームなどはあるはずがないのである。
私が登山を開始した頃も「三人寄れば山岳会」と世間では揶揄されていた。井上靖の「氷壁」が昭和30年代前半に発表され、ハイヒールを履いた若い女性が上高地に登場して世の顰蹙を買っていた。
私も友人に誘われて山のクラブに入り、このブームの渦中に身を投じて居たことになるのだが、不思議なことに今日まで50年近く続いていることになる。

30代半ば頃、八ヶ岳の山麓に地元の大工に頼んで山小屋を建てた。落葉松の中の一軒家であるから電気なし、水道なしの正に原始生活である。夏はここに1ヶ月間、滞在した。規模は違うが、当時テレビ放映されていたローラ・インガルス・ワイルダー作の「大草原の小さな家」のような環境で、敷地内ではリスが枝から枝へピョン、ピョンと飛び回り、初夏になるとホッチョ・カケタカと特色のある鳴き声の時鳥がさえずっていた。
左 清水先生 中 内田氏 右 山口先生 
野生の鹿と出会いがしらに正面衝突しそうになり私もびっくりしたが鹿も驚いた様子で退散していった。
冬は寒く、零下10度以下になり、掛け布団の吐く息のかかる部分は凍結していた。夏には友人を招いた。東京の英会話学校の講師アメリカ人夫妻も日本人の知人と一緒に見えたこともあった。
山岳部の夏山合宿で南アルプスから帰ってきた時、肩の付け根あたりに小指先大の血豆のようなものがあり、恐らくザックの肩紐で擦れて、できたであろうと思っていたのだが、数日後、風呂に入った時その血豆はぽとりと取れてしまった。よく見ると白い足が何本もある甲殻類の虫であった。毒虫であってはまずいので諏訪中央病院で診察してもらったら、牛や馬に取り付き血を吸う虫であるとのことだった。合宿中は蛭にも苦しめられ、貴重な血液を大分、虫たちに献上したことになった。

昭和60年頃、日航ジャンボ機が墜落して520名の死者を出した事故があった。早朝から小屋の上空をヘリコプターが騒音を立てて飛び交じっているので、この様子では遭難地点は八ヶ岳山中ではと思ったが、実際は群馬県上野村の御巣鷹山中であった。この2つの山は直線距離では近いはずである。

前列右側 清水先生 後列左 石井先生
電気のない生活は文明社会に慣れてしまった現代人には不都合である。こんな山奥に一個人の要望で電気を引くのは自分勝手すぎると遠慮していたのであるが、思い切って中部電力に申請したら許可が出た。電気があれば冷蔵庫が使える。電話が入る。風呂の水も近くの堰からポンプでアップできる。テレビが入る。洗濯機が使える。ランプは山小屋の雰囲気を醸し出す装飾品となってしまった。電気は現代社会では空気の様な存在であるが、この時は心身に革命が起きたような気分であった。
このようにして22年間使った山小屋周辺に異変が生じた。長野県とリゾート開発を計画している大手の建設会社が提携してダムを造り、わが家はダムの底に沈んでしまうというのである。私は普段は東京に居るので強い反対運動を支援できない。反対派の人によれば、ここ八ヶ岳山麓は北アルプス、中央アルプス、南アルプスなどが展望でき、近くには白樺湖、霧ヶ峰がある長野県を代表する景勝地であると言うのである。結論は等価交換で代替地に移ることになった。いろいろ候補地があったが最終的には、大手不動産会社が開発した別荘地に決まった。以前は水を確保するのが大変だったが、ここでは蛇口をひねれば水が出てくるのである。これは助かる。テレビもケイブルなのでCNN放送まで入る。


退職したら、ここに居を移し、のんびり老後を過ごそうと思ったが諸般の事情もあり現在は東京との二重生活をしている。その間に四季折々の八ヶ岳連峰の美しい自然を楽しんでいる。
右から2番目 清水先生 左から3番目外川先生 白馬岳にて 卒業生が山小屋で働いていました。左端山口先生
清水照夫先生のご紹介
英語、平成元年〜平成12年
略歴
 昭和14年9月22日生まれ、68歳。北園高校から東京学芸大学英語科卒。
 都立葛西工、北野等を経て、平成元年文京に赴任。平成12年まで母校で英語を教え、退職。
 また山岳部顧問。(山岳部は平成10年に部員がいなくなり休部中)。
 30歳頃に筑波山に登り、日本百名山の踏破を目指す。63歳のときに鳥海山を登頂し、ついに百名山完登を果たした。
昭和20年度の通信簿
3-A 太田敏夫
1945年4月から46年3月まで、わたしは都立豊島中学校の1年生であった。その1学期は大戦の最末期、「4.12 入学式を空襲の警報中に実施」「4.13 夜に入って再び空襲、校舎全焼」(以上「新校舎落成-1953-記念誌」中の「本校の歴史概要」による。)という日々で始まった。上級生は学徒動員により工場で働いていた。わたしたち新入生はまず焼け跡整理から中学校生活を始めた。

 5月25日には空襲によって小石川竹早町(現文京区小石川5丁目)のわが家は全焼、その翌日から母は、東大病院入院、父は出勤、昼間防空壕に残されるのは、5歳の弟と13歳になったばかりのわたし。配給物を受け取るために行列に並んだり、昼の食事ともいえない食べ物を用意するのがわたしの仕事であったから、学校に通うことはできなくなった。

 8月15日に敗戦。9月の2学期は戦後の混乱の中で始まった。わが家は馬込(太田区)の親戚の一室を借りて生活していた。「11.5 小石川関口台町小学校内に分教場設置」(同前期による。)とあるように教室は移転する。この月の半ば頃から、わたしは再び中学生に戻る。私鉄、国鉄、都電を乗り継いで、超満員の通学を始めた時、同期生は代数・幾何なども進んでいて、算数の世界にとどまっていたわたしには皆目わからなかった。記憶がまちがっていなければ、通い始めた翌日から中間試験だったはずである。11月半ばで遅いのだが、移転が関係しているのではないだろうか。

 「昭和21.2.8 文京区元町2の39 元町小学校内に本校移転」(同前)、わたしたちは机、椅子を運んで引越しをした。この後5年余りをここで学び、文京高校を卒業するのである。

 前置きが長くなったが、20年度の通信簿はわら半紙半折の大きさで、横長、ガリ版印刷である。今は2つに折った折り目から切れかかっている。板橋区前野町で水害にあい、文字もにじんでいる。

 左上から「昭和20年度 通知表」とあり、右側に「東京都立豊島中学校」その下に「第 学年 組生徒_________」とある。空欄にはわたしの字で「一、A、太田敏夫」と書き入れてある。名前の最後の位置の上方に「No.__」とあって、「37」とわたしのペンでいれてある。(わたしのペンのインクの色と担任のそれは少し違うし、字体も違う。)オオタが37番なのは、出席簿の最後には付けたされたのであろう。

 その下の学科の欄は一番左に国民科があり、それは修身・国語・地理に分かれ、国語はさらに国語・漢文・作文文法の3つに分けられている。理数科は数学が数一・数二、物象が一、二、さらに生物である。次の体錬科は3つの欄に分けてあるが、真中の欄に体操とあって、左も右も空欄になっている。前年度の通知表では軍事訓練を意味する文字が入っていたのだろう。「体錬」という語は、体操・教錬の2語は縮めたものであろう。次は芸術家、音楽・書道・図画・工作。ついで外国語は英一、英二。最後に修錬というのがあるが、内容はよくっわからない。(2年の通知表では作業・修錬と2欄にわけられているが、評価は2欄の間に線上に1つだけ記されている。)

 さて、実際にどのような「点がついている」のであろうか。体操の左右の2つの空欄を除くと19欄になるが、そのうち10欄に評価が書かれている。わたしのには2学期と学年とにだけ記入されている。同級生のには1学期の記入もあるのだと思う。(3学期の評価は2,3年の通知表でも空欄なので、1年次も空欄であろう。)

 評価はほとんど良と可である。2学期の数二が優を消して良になっているのと、学年の修錬がただ一つ優になっているので、優良可があるは確かである。(中3の通知表に秀があるので、秀優良可であったかもしれない。因みに5.4.3.2.1の評価になったのは高2からである。)

 各教科の右側に総計・平均・席次・及落があり、その右に出欠表の欄がある。総計は各学期も学年も、つもり全欄記入なく、平均は「良」、席次「中」と記入され、及落については学年の欄にわたしの字らしいがほとんど読めないくらい薄く、「及」の字がある。担任に確かめて、自分で記入したのだろうか。

 出欠欄に移るが、1学期はすべて空欄であると先に書いた。2学期の欄に授業日数175、忌引0、欠席146、遅刻0、早退1、欠課0と書かれている。3学期にも学科にも出欠に関する記入は全くない。授業日数というの出席すべき日数というのに等しいと思うのだが、175日というのは2学期だけではありえない。学科全体の日数は2年では210日、3年では238日とそれぞれの通知表に記されているから、学年通しての日数としては少なすぎる。1・2学期の合計であろう。欠席日数の146日は、9月から12月までの総日数が122日であるから、2学期だけの欠席日数ではありえない。175マイナス146は29日になる。11月の後半と12月の出席日数として妥当な数である。とすれば、146日から4月と5月25日までの出席日数を引いたのが正しい欠席数字かもしれない。

 いずれにしても6月7月を全休し、9月10月も全休したのであるから、平時であれば進級の基準に達しなかったのは確かであろう。

 通知表の一番下には左側に担任と保護者が印を押す欄があり、2・3学期に担任印が、2学期に保護者印がある。その右側に通信欄があって、すべてが終わる。

 どこにもない校長氏名、担任氏名は、下の欄外にわたしの字で記してあった。


太田敏夫先生のご紹介
 国語、昭和45年〜平成3年。3期生(A組)。
略歴
 昭和26年3月文京高校卒業(3期A)。早稲田大学第二文学部卒。
  在学中、フェニックス書院、講談社で国語教科書編纂に従事。
 昭和30年文京区立第九中学校教諭(国語)
 昭和39年都立牛込商業教諭(国語)
  昭和45年から文京高校教諭(国語)。
 その後嘱託として以降平成13年まで30年間母校で教壇に立つかたわら、同窓会会計として同窓会を支えられた。
 趣味は囲碁で今でも文京教師仲間と週1回白黒を交わす。