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東京都立文京高等学校同窓会

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同窓生は今

松下功還暦コンサート 荒山孝郎さん快挙!
 
 松下功還暦コンサート『天地響應』報告と感想
 11月22日(火)と23日(水)第一生命ホールにて、紫筍54号で紹介した、22期生の現代音楽作曲家である松下功氏の還暦記念コンサートが感動の拍手のうちに終了しました。この23日は松下氏が還暦を迎えた記念すべき誕生日でした。
 山田泰斗41期と梶野茂男19期は、公演初日の22日に母校文京高校同窓会を代表して公演の成功と還暦を祝して花束を届けてきました。
 当日の演目は3曲で、初めの2曲が初演、後半の3曲目が舞台初演でした。会場の第一生命ホールは、中規模な円形ホールで素晴らしい音響でした。
 プログラムは二部構成で、第一部―飛翔する音― 《天空の調べ》は{ヴァイオリンと室内オーケストラのための}(ヴァイオリン 澤和樹 オーケストラ アンサンブル東風)の曲であることが開演前の写真からわかると思います。印象は、タイトルが示す通り天女が飛翔するような上昇感のあるイメージでした。
 続く、《天地響應》{和太鼓協奏曲第二番}は、海外からも待ち望まれた作品でした。世界的な和太鼓奏者である林英哲氏が大太鼓を中心とした太鼓ソロを担当し、アンサンブル東風と、30分近くに渡り驚異的な演奏技術を披露しました。この大太鼓の響きと臨場感は圧倒的で、ホールを揺るがし、その場に居たものしかその凄さを分かち会えないと思いました。デジタル録音と再生機器が進歩をとげた今日でも、このパルシブな響きは再現不能でしょう。やがて、林英哲氏はこの和太鼓協奏曲第二番に不可欠な奏者として、これまで以上にこの名曲を携えて世界的な活動の場を広げて行くに違いない、私たちは、この演奏会のタイトルともなっている《天地響應》という名の名曲誕生の瞬間に立ち会えたのだ、とその思いを深くしました。写真はその開演前の挨拶シーンです。
 
 1曲目 天空の調べ
(ヴァイオリンと室内オーケストラのための)
 2曲目 天地饗應 和太鼓協奏曲第2番
3曲目 密教傳來〜空海への道〜  天地響應コンサート  同窓会よりの花束(41期山田) 
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休憩を挟んで第二部は、―曼荼羅の響きー《密教傳來》〜空海への道〜は、80分にわたる大作で、五楽章構成の{聲明(しょうみょう)とオーケストラのための}オラトリオとも呼ぶべき壮大な作品でした。
 ―五智如来讃嘆― 第一楽章<五大に皆響きあり>、第二楽章<南天鉄塔>、
第三楽章<密教東流>、第四楽章<入唐求法>、第五楽章<高野入定>は、聲明と朗読、オーケストラとの協演という、洋の東西を結び付けたコラボレーションの21世紀に入っての一つの大きな成果物と呼べると思いました。壇上には3年前に板橋にある安養院の多宝塔に本尊として安置されている五智如来像が置かれ、壇上には二つの曼荼羅(マンダラ)《金剛界》《胎蔵界》(デジタル化され出力アウトされプリントしたもの)が吊り下げられていました。そして、舞台上手には、アンサンブル東風と指揮者の松下氏、舞台下手には、宝玉院・普門院住職 新井弘順師が台本朗読のために立ち、その奥にはソリスト群が配置され、ホール二階壇上左右背面には二群に分かれた六名づつの袈裟を着た僧侶が立ち並び舞台初演の《密教傳來》〜空海への道〜が始まりました。第一楽章の途中で、ホールの背後から声明を唱えつつ、左右に分かれた二列三十名程の僧侶が入ってきました。続いて、ホラ貝が鳴り響くなか壇上に端坐し、導師 金蔵院住職 孤嶋由昌僧正が入場してきました。ここで、孤嶋由昌導師による五智如来の供養作法が行われました。
(これは、3年前、板橋にある安養院の多宝塔とその本尊である五智如来像の開眼音楽法要の為に委嘱された作品を今回の舞台初演のために再構成したことによります)
 この五智如来の供養作法の最中には、僧侶が如来像をそれぞれが一巡りするごとに、紫、白、赤、緑、黄、と五色の照明が如来を異なる色で照らし出し、五蘊皆空(色・受・想・行・識)(ごうんかいくう、しき、じゅ、そう、ぎょう、しき)を象徴していたようでした。導師の声明と総勢四十人余りの僧侶が唱える声明は素晴らしく、日本に千二百年余りの長きにわたり、伝承されてきた我が国の世界に誇るべき宗教音楽に他ならないと思いました。
 聲明に続き朗読です。「延暦23年(西暦804年)、日本の学法の沙門空海入唐す。・・・偶然にして青龍寺東塔院の和尚、慧果阿闍梨(けいかあじゃり)に遇う。・・・空海、往きて和尚に見みゆ。和尚、たちまちに見て、笑を含み、歓喜して告て曰く。『我れ、先きより、汝が来ることを知って、相待つこと久し。今日、相見ること、大いに良し、大いに良し・・・我と汝と久しく契約あり。誓って密蔵(みつぞう=密教のこと)を弘めんと。我東国に生まれて、必ず弟子とならん』と。」
最後に至り、般若心経が厳かに唱えられ、オーケストラと絡み合って高揚感のうちに静かにフィナーレを迎えました。(写真では中心部が露出オーバーですが舞台構成がわかると思います。)

 開眼法会のときから聲明に朗読が加わったことで、「密教傳來」と言う壮大な歴史的叙事詩が「ことばと、聲明、音楽構成で、この舞台上に音とかたちで曼荼羅世界を表現し、ここに集う多くの人々共々、心の曼荼羅を体現していただき、生きるよろこびを共にわかち合いたいと願っています。」(コンサートの実行委員会代表であり、真言宗豊山派 安養院住職 平井和成氏 コンサートに寄せた一文より)とあるように会場と演奏者は深い共感と一体感に包まれ、大きな温かな拍手の内に充実した松下功還暦記念コンサートは終了しました。
 ただ、残念なことは、この声明は開眼法会の際に行われたもので、その規模が大きく、迦陵頻伽聲明研究会に所属する僧侶の皆さんはそれぞれ現職の住職の方たちが殆どでありプロの合唱団と異なるため、西洋音楽の合唱曲と異なり再演することは難しく、皆さんがこのような機会に接するチャンスは余りないだろうと思ったことです。再演の機会があれば同窓会のホームページで紹介しますので、お聞きになりたい方はご都合をお付け下さい。

 最後に、明治以降の日本の音楽教育と日本の伝統音楽について一言。
 明治維新政府は、尊王攘夷を目指した薩長を中心とする勤皇の志士の、討幕運動から起こったため、維新政府は王政復古を唱え、幕府が保護してきた仏教寺院などに対して、廃仏毀釈を進め、教育の近代化にあたっては、日本の伝統音楽を排除し西欧音楽の導入一本やりで来ました。このため、最近になってようやく、学習指導要領に和楽器の演奏などが必修で入って来ましたが、私たちの生活環境の中から和楽器や邦楽はほぼ一掃されかかっています。私たちが、バッハのミサ曲や、荘厳なパイプオルガン曲を聞く機会は次第に増えて来ていますが、これに比べて、日本古来の宗教音楽とも言える。聲明に接する機会は殆どありません。聲明は、実に戦後になって「再発見」されたと言います。そして、有意の方たちの努力がようやく実を結び始めてきており、年に数回ですが国立劇場で聲明に接することができるようになりました。
 これに比べて、美術の方は、岡倉天心にはじまる日本画復活運動が明治中頃からはじまり、日本画は一定の評価を受けて今日に至っています。
 ところで、日本の伝統音楽の中で、聲明は、雅楽、能、歌舞伎のなかの長唄、義太夫節などと並んで大きな位置を占めています。
 これらを、伝承するだけでなく、復活、再生し、松下氏が進めているように、洋楽とのコラボレーションを通じて新たな高みを目指して進化させていくべきであるとの思いを強くしました。近代音楽の作曲技法を駆使しながら、日本の伝統音楽やアジアの民族音楽とのコラボレーションの先頭に立たれている松下功氏の今後の一層のご活躍を祈念して、報告と感想に代えます。                 文責  19期 梶野茂男
荒山孝郎さん快挙!
2006年に最高齢でエベレストを制覇した荒山孝郎さん(6期F)が、2月にアフリカ大陸最高峰のキリマンジャロ(タンザニア、5895メートル)に登頂し、7大陸最高峰を制覇した。
  1999年6月に63歳でマッキンリーに登ったのを手始めに、2006年5月には、70歳7か月でエベレストに登頂。当時、プロスキーヤーの三浦雄一郎さんが持っていた最高齢の登頂記録を塗り替えた。09年3月に岩登りを伴うインドネシア・ニューギニア島のカルステンツ・ピラミッド(4884メートル)に登頂し、6峰を制覇していた。 読売新聞によれば、7峰を制覇した日本人は約20人だけとされる。「世界最高齢での達成ではないか」と山岳関係者はたたえている。

※7大陸最高峰 一般にエベレスト(アジア)、エルブルス(欧州)、マッキンリー(北米)、アコンカグア(南米)、キリマンジャロ(アフリカ)、ビンソンマシフ(南極)、コジオスコ(豪州)。
 2010年2月
 
 キリマンジャロ(アフリカ)
(5895メートル)
2009年3月 2007年8月 2006年5月
     
 カルステンツ・ピラミッド(豪州)
オーストラレイシア 4884m
青色のヘルメット
 エルブルース(欧州) 
5642m
 エベレスト(アジア)
8848メートル
 2002年2月  2000年12月  1999年6月
アコンカグア(南米)
6962m
ヴィンソン・マッシフ(南極)
4897m
オレンジ色のヤッケ
マッキンリー(北米)
6194m
左から二人目
注)カルステンツ・ピラミッドはニューギニア島のインドネシア領にある。オーストラレイシアはオーストラリア大陸、ニュージーランド北島および南島、ニューギニア島、その他近海の諸島を含む地域を指し、オセアニアとは少し地域が異なるようです。
 荒山氏ギネスブック掲載される
 

 エベレスト登頂に成功(2006年5月17日時点では最高齢でした)


2006年5月17日、1935年10月4日生まれの荒山孝郎氏が、

エベレスト登頂に成功した。70歳と225日目だった。
 
文京同窓生6期F組荒山孝郎氏が2006年5月17日、70歳7カ月と13日という世界最高齢で最高峰のエベレスト(8、850メートル)の登頂に成功しました。
 70歳のエベレスト(チョモランマ) 
 日本出発は4月15日、空路バンコク→カトマンズ→ラサ(3607m)と移動し、ラサに3泊。ラサからは高度順応することが必須で、車で5日間かけて徐々に高度をあげ、4月25日にベース・キャンプ(BC、5154m)に着いた。BCをベースに半月ほどの間、周囲の山に登ったり上部のアドバンス・ベース・キャンプ(ABC、6400m)よりさらに上まで足を伸ばしたりして体を高度に慣らした。5月 11日、BCからABCに向かい、そこに数日滞在した後、天候の状況などから登頂日は5月17日と決定された。日本出発から29日目の5月14日いよいよ頂上アタックのためABCを出発した。C1(7066m), C2(7800m) と高度をあげ、16日午後 C3 (8225m)に到着、簡単な夕食後、午後10時の出発に備え寝袋にもぐり仮眠した。うとうとして目覚めた時は既に出発時刻を過ぎており、急いで身支度を済ませ1時間半ほど遅れて出発した。それから約11時間後の5月17日午前10時25分、8848mの頂上に立つことができた。その時の気持ちは不思議に感動というものはなく、やっと頂上に着いたかというものであった。空は黒ずんだ青色をしており、周りの全ての山々を見下ろす世界最高峰からの眺望はすばらしいものであった。頂上には30分ほど留まり下山したが、3日後ベースキャンプに無事帰着してはるかに高くそびえるチョモランマの頂上を仰ぎ見た時、あそこまでよく登ったものだと、静かな感動が湧いてきた。
     
 
 荒山孝郎氏 ベースキャンプ(BC、5150m)からの
エベレスト(チベット名チョモランマ)
 登山の安全祈願、ベースキャンプにて
 
BCからABC(前進ベースキャンプ6400m)へ
登山隊の荷物を運ぶヤク。
ABCの風景。
後ろに見える雪の鞍部がノースコル(7066m)
頂上直下から頂上を望む
 頂上からの眺め。
後ろの高い山はチョーオユー(8002m)
 頂上にて  キャンプ3(C3, 8225m )のテントにて
チョーオユーは世界に14座ある8000m峰のうち第6番目の高峰で、1999年に荒山氏は登頂したそうです。
 
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