卒業アルバム、担任の先生の写真
A組 越川先生  B組 渡井先生 C組 赤坂先生
D組 後藤先生 E組 菅野先生 F組 長谷川先生
 
文京高校と私  越川 義夫(英語、A組) ご逝去
同窓会会報の前号に退職教員の名前が載っているのを見ましたが、どうしたことか私だけが洩れているのに気付きました。実は私も昨年、正確には昭和五二年三月三十一日付で都の勧奨を受け、永年厄介になったなつかしい都立文京高校を、心ならずも退職いたしました。

縁あって私が文京高校(当時の都立豊島中学校)に職を奉ずるようになったのは、終戦直後の昭和二十二年四月のことでした。今頃の学校は、国電水道橋駅近くの区立元町小学校に間借りする狭っくるしく、古く汚い校舎の一部でした。そしてこれも狭くて汚い職員室、その片隅を小さく仕切った校長室、廊下の一隅の図書館、四方校舎に囲まれたコンクリートの小さな運動場、といった有様の、それは本当に「これが学校か」と目をみはるばかりでした。冬に、職員室で石炭ストーブを焚くと、煙突がすぐつまり、室内は黒いすす煙りがもうもうと立ち込め、眼も開けられず、息も詰まるようなひどいものでした。それでも、いやそれだからこそ、当時の生徒諸君は、不自由に堪え、勉学の意欲に燃え、教師も皆張り切って共共に生き生きとした学校生活を送っていました。忌まわしい長期にわたる戦争から開放され、敗戦ながらも、国民はみんなで新生日本の再建に力強い第一歩を踏み出していたのです。

私自身も前後二度の応召で六年ほども外地で従軍した後なので、生まれ変わったようにやる気十分でした。そんなある日の授業中にP・M(米軍憲兵)がジープで学校へやって来て、有無を言わせず私をG・H・Q検察局に引き立ててゆく、といったハプニングもありました。あとで聞いたことには、その時から私のあだ名が「戦犯」ということになったそうです。

当時、独身だった私は、住む部屋もなく、親類に当たる神保町のある洋服商の家に寄隅していて、そこから徒歩で通勤していました。その家もバラックで、家族六人と夜はごろ寝で、食事も全て配給もの、米飯はほんのたまさか、といった状態の食糧事情も止むを得なかった当時の生活でした。しかしそれだからこそ一層に学校の授業は楽しく、校長の勧めで私は夜学の授業も受け持ち、張り切って一日一日が本当に充実した日々でした。生徒諸君と戸田農園での麦刈り、脱穀、芋掘りなども楽しい思い出です。大雨の日に膝までつかって収穫した芋を背負って歩いているとき、志村の交番前で警官にとがめられた事などもほほえましく思い出されます。

新校舎に移れた時の全校の喜びは大変なものでした。真新しい校舎内での授業、広々とした校庭での存分な運動、競技、あの元町小学校での生活は昨日の悪夢に過ぎなかったのです。私も、旧制中学は夜学でしたので、思存分、教師としてよりも生徒の気持ちで生徒とともに勉強し遊んだものです。しかし、この楽園に、やがて学校紛争の嵐が吹き荒れようとは。昭和四十四年の秋の反帝学評による学校封鎖は瞬時にして学園を一大混乱に巻き込んだのです。長期に及ぶ騒動に、教師も生徒も見も心も疲れ果てたものでした。しかしやがて全校挙げての努力の結果、貴い教訓を得て事態収拾ができたことは喜ぶべき次第です。記憶の糸をたぐると止めもなく嬉しいこと、楽しいこと、辛いこと、悲しいことが思い出されます。現職の校長、同僚教員の死は、痛恨限りない思い出です。私自身も急病で、死寸前に保健室から病院に運ばれ、急きょ手術を受けるという経験を持ちました。

それにしても三十年間もの永い年月勤めた職場をやめる時は本当に、感無量でした。 退職のあと五月に、赴任最初の担任の卒業生が箱根一泊旅行に招待してくれ、一夜の歓談に夜のふけるのも忘れるという教師冥利につきる機会に恵まれました。この時ほど教師という職業の有難さを痛感した時はありません。実はその同じクラス会の幹事から、今又、忘年会への招待状が届きました。一別以来未だ半年余ながら、再び元気な二十八年前の生徒諸氏と一堂に会して、楽しい暮れの一夜を過ごせる、という思いに、今から胸のときめきを覚える今日此頃です。

終わりに、都立文京高校の同窓会会員諸氏の御健康と今後の一層の御活躍を祈りながら筆を擱く次第です。(紫筍二十一号。昭和五十四年2月発行。越川先生は平成十七年十一月に逝去されました。謹んでご冥福をお祈りいたします。) 
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同窓会によせて          渡井 栄一郎 (化学 B組担任)
ある学校を卒業して上級学校に進んだりあるいはまた実社会に出たりすると、理由はいろいろあるが、母校を訪ねることもなくなり、次第に母校から遠ざかるようになってしまう。最近のように教育熱心が高まり、幼稚園、小学校、高等学校、大学というような進み方をするようになると、卒業後は、たとえてみると人生行路での一宿場的な感覚でしか捉えられなくなってします。同期生や同級生の場合は、同期生会とか同級生会とかを開いて旧交を暖めており、これはこれで大いに結構なことではあるが、これとても母校との直接的な繋がりはやはりうすくなることには変わりがない。そこで同窓生全体の連携、親睦を深めかつまた母校との疎遠化を防ぐため、同窓会のあり方について再校してみたい。

どの学校にも同窓会とか校友会とかいう同じような会があり、その運営方法も似たようなものではあるが、何か公式化されているようなところがあって物足りない。今度の文京高校創立五十周年、校舎改築記念の集いが大成功裡に終わったのを見て、同窓会も運営方法を考え直せば、同窓会の活性化が出来ると思ったのである。もちろん、このためには、学校当局に積極的な援助をお願いしなければならないし、また同窓会役員、同窓会費、同窓会場その他見直すべき問題が多々あるが、この辺でわが文京高校同窓会が他に先駆けて同窓会の活性化に取り組んで頂けたらと考える次第です。
(紫筍三十五号、平成4年発行。渡井先生は九十六歳を超え、腰痛症で多少歩行がご不自由そうなことを除けばお元気です)
転任にあたり          赤坂 正雄(英語、C組担任)
この三月に文京高校をやめ、両国高校へ転任しました。十四年七ヶ月文京に在職したことになります。ずいぶん長いこといたものだと我ながら感心しています。その間何とかやってこれたのも文京の親切な先生方のお陰と感謝しています。  

二十九年の秋に私が文京へ来たときは新校舎ができて間もない頃で、モデルスクールだとちやほやされていた時期でした。もっとも当時でも校舎だけモデルスクールだという、今でいう自己批判もなかったわけではありません。しかし一学年三百名六学級で、こじんまりとした構成であり、職員数もそれに応じて少なく、教師と生徒間ばかりでなく、我々の間も、生徒間もお互いの理解を深める機会が今よりずっと多かったように思われます。それが現在はその五割増し、一学年四五〇名となり、名前と顔が一致するのはおろか、名前すら聞いたことがないような気がすることもしばしばです。

学校だけではないでしょうが、特に学校はマンモス化することはそれだけ学校としての機能を失ってゆくことになります。教室で授業のときだけ顔を合わせるのにとどまり、親しい友人に恵まれることもなくなり、とことんまで食いつける教師に、たとえ一人にもせよめぐり会えなくなってしまうのが実情です。

とは言え同窓会員は増加し、現在約七千人になりました。名簿の整理だけでも大変な仕事になりました。今までは西岡先生の御尽力と数名の卒業生の協力でやってきました。報われることの少ない仕事に精出してくださったことをありがたいと思っています。とりわけ西岡先生の貢献には頭が下がる思いがします。

幸いにも昨年から事務をやってくれる人が見つけられましたが、今度は仕事をする場所に困り、校内の事務室、会議室など転々としている始末です。立派な同窓会館と言わなくても、幹事会、会報編集、名簿作製などの仕事のできる場所を作らなければなりません。第十八期の徳河修君がこのことに熱心に当たってくださり、具体化してきました。近く建設資金寄附について会員一人一人にお願いがあると思います。その時は一口でも二口でも皆様にお願いします。

文京を離れましたが、これからも先生方、卒業生と会う機会をできる限り多く得たいと願っております。卒業生諸君のそれぞれの分野での御活躍を祈っております。(紫筍十四号、昭和44年九月発行)  
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文京生について         後藤 神戸(国語、D組担任) ご逝去
文京生気質というものが果たしてあろうか。ないこともないが、それよりも現代の社会的環境の中で普遍化された現代高校生気質に置き換えた方がより適切かも知れぬ。毎年入学してくる生と諸君に接するたびに、年々ある傾向がハッキリしてきている事を感ずる。それはイエス・ノーの態度がハッキリしていることである。よりわかりやすい言葉で言えば、はっきりと割り切っていることである。これが中学から高校へと続く受験という人間不在の教育の中に成長してきた彼ら共通にもつ底辺なのである。更にめまぐるしく変わってゆくマスコミによって彼らの個性は一様に類型化され、ものの考え方は等しく外見だけの大人にされしまっている。不合理に対して絶叫して抵抗することさえ忘れかけている。若い魂が微塵もなく燃え上がるという事はほとんど見らないのである。おいた人間のように用心深いエネルギーの使い方をする。  

しかし反面半ばマスプロ化した高校教育のあり方に対して、なかなかに手厳しい批判を容赦なくする。そして失われようとしている人間関係の絆を、ホームルームの討議の中で熱心に求めて来る。そして彼ら自身が納得するまで討議する意欲を示すこともある。だが誰もがお互いの幸福を積極的に願いながらも、究極は個人の問題に帰着する場合がほとんどである。そして三年と言う短い時間では友情という言葉を、絶えず口にしながら、心に希求するだけで、真の友達をつくることが出来ない場合が多いのである。  すべてを自分にもっとも都合のよい解釈と理屈で規定していくような傾向がますます色濃くなって来たように思われる。そしてある場合には教師の努力も誠意も理解されず、極論な場合には先生のお世話になっておりません、というはっきりした態度には、教師自らの限界をつくづくと感じさせられる事もまれにはないではない。  

だがこれは特殊なケースで、今も昔も変わらぬものは素直で明るい雰囲気である。立入御法度の中庭の芝生に腰をおろして戯れている生徒に注意に及ぶと「先生、芝生と太陽は健康の為にいいですよ。」とおもむろに腰を上げるにいたっては、思わず苦笑せざるを得ない。全く亭主を操る技術を心得た女房のようなものである。表面上はよくカラカラと笑い、陰気くさい感傷は微塵もない。「思い込んだら命がけ」などという言葉は、彼らの前には軽くいなされて葬り去られてしまうのである。  

文京祭にはエレキ演奏のあるところ何れも大入満員、アンコールの拍手がとぶ。そしてその後の演劇には水を引いたように講堂がガランとした。最近の彼らには下手な同級生の演技に若い感傷のエネルギーを消耗するようなことは無駄になっているのである。瞬間瞬間に体に感ずるリズム、そして後に何も残らぬものに或る時を過ごすことに逃避していると言うのは言い過ぎであろうか。生徒会の活動は相も変わらず不活発で受験という渦の中で一部の委員の肝入りで運営されている。  

とに角何事にも干渉することを好まぬと同様に、人から干渉されることも決して好まない。そして指導という名の下に不必要に接触する教師の好意を素直に受けない。それお必要以上に排除しようとする積極的な意思もしめさなければ、そうかと言ってそれをそのまま受け取るのでもない。利口にそして静かに一応は頂戴しておいて、必ず他の面で構えを示す。その可否はとも角、年々歳々その変りようには著しいものがある。  

最近折々「伝統」という言葉が聞かれるようになった。それだけ内容的にも文京の歴史は年を重ねたのであろう。ささやかな彼らの意識であるかも知れぬが、良識ある行動の裏付けとして、この言葉が彼等の新しい感覚で解釈されつつあることは事実である。彼等は一見小児的大人のように受けとれるが内面はなかなか健やかである。そして彼等ひとしく求めているものはなんであろうか。それは人と人との誠実な結びつきである。(紫筍十一号。昭和四十一年六月発行。後藤先生は平成二年三月にご逝去されました。謹んでご冥福をお祈りいたします。)  
 
至誠一貫、ベストを尽くす 菅野先生(4頁〜5頁)日本史、E組担任)  
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長谷川次郎先生 ご逝去
先生は昭和五十年末から闘病生活にいられておられましたが、五十一年十月十三日、山楽病院でご他界なされました。謹んでご冥福をお祈り申し上げます。

弔辞
 謹んでなき長谷川次郎先生の御霊前に申上げます。人生無情とは申しながら、今、先生の訃報に接し、あまりの無情迅速さに現実とも思えず、ただ夢見る思いであります。天はなぜ先生にもうしばらくの時を与えてはくれなかったのでしょう。死というきびしい現実を前にして、その苛酷さにひしがれる思いがします。

 先生は昭和17年四月、大学を卒業されるとすぐ、現文京高校、当時の第三東京市立中学校にうら若い青年教師として着任されました。爾来三十余年、その生涯のすべてを一筋に本校の教育のために捧げられたのであります。戦争中空爆下にあった本校は、場所こそ現在と変わらぬものの、養老院の建物を利用した仮校舎で、あらゆる面で不備不足でありましたが、若い情熱に燃える先生は、そんな中から、本校物理教育の芽を育てていかれたのでありました。

 戦後はしばしば学級担任として学級経営の妙を発揮され、四十年からは学年主任として見事なリーダーぶりをお示しになりました。また、戦後派ひき続き理科主任として本校理科教育の基礎を確立されたのであります。先生の熱心、几帳面で、事に当たって果断、そして火をふく櫻島の情熱を内に秘めた人となりは、生徒一同のひとしく欣慕するところであり、また、同僚一同の敬愛してやまないところでありました。

 先生の御活躍はひとり学校内ばかりでなく広範囲にわたり、昭和四十三年には、その倦むことのない多年の貢献を認められて、日本理化学協会より功労者として表彰されました。また、ここ数年は東京都理化教育研究会の第四支部長として御活躍になり、更に五十年度には同研究会の事務局長として縦横の手腕をふるわれたのでありました。そのほか、この十数年にわたり読売科学賞の審査員としても貢献されたのであります。

 五十年十二月、不幸病におかされて三楽病院に御入院になり、以来病勢は一進一退を繰り返して、教職員・生徒一同心からその御回復を祈っていたのでありますが、本年六月再入院以来、病勢とみに悪化し再び立つことをえず、ついに五十九歳を一期として不帰黄泉の客となられました。こういう事態を迎えようとは誰が考えたでしょう。全く思いもかけないことで、ご遺族の方々のご悲嘆もさぞやと察せられ、痛恨の極みであります。先生は今や幽明境を異にして、その温情に接することは出来ませんが、その業績と情熱は広く文京高校関係者の心の奥に生きつづけることでしょう。

 その生涯を教育の道に捧げ尽して天に召された先生の清らかなみ霊よ、庶幾くは安らかに眠れ。
 昭和五十一年十月十五日
                           東京都立文京高等学校長
                                     荻 島   郁 太 郎
(紫筍十九号、昭和五十一年十一月二十五日発行)
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 恩師と11期生の近況

【A組】越川義夫先生
(英語)真面目一途の先生でした。平成17年11月12日に逝去されました。謹んでご冥福をお祈りいたします。
◆クラスメート 男子32名、女子19名のクラスです。このうち小笠原紀利、高山精一、長谷川満夫、山崎健治、上田陽代の5氏が亡くなられました。ご冥福をお祈りいたします。現在住所不明者は11名です。毎年行われている同期会の出席も残念なことにごく僅かなので、卒業50周年の同窓会・同期会にはぜひとも参加して頂きたいと思います。卒業以来50年。定年を迎えた方も多いと存じます。仕事を続けておられる方、悠々自適のかた、さまざまではありますが、ご長命の親御様のお世話をされておられる方がかなり居られるとのお話しもよく伺います。仕事の傍ら趣味の社交ダンスで競技会に参加されている方もおられ、人生を皆がそれぞれに過ごされていることなど伺いますと、歌の文句ではありませんが「人生いろいろ」とはよく言ったものと、今更に感じる今日この頃であります。これから先の人生は余り力を入れずゆったりとした感じで過ごしたいと思います。(内山盛雄)

【B組】◆クラスメート 
紛争地の取材では幾度となく身の危険を体験した元海外報道記者。今は家庭菜園ほか幾つもの趣味の日々。平和な日本を実感の由。割烹料理の家業を継ぎ自らの味を追求の彼。この頃は仏像を彫る。こちらもいい味を出している。身体と頭の体操で毎日多忙なクラスの重鎮。心も豊か、コーラスにも熱心。活発な演奏活動の傍ら後進の指導育成にも心血を注いでいる音楽家。写真家とファッション研究家。二つの顔を持つ彼は相変わらず海外出張が多い。いつも行動的。若い頃から続けていたフォークダンスは今や指導者。血管年齢の若さもご自慢の彼女。身のこなし軽やか。グルメ雑誌で紹介され評判の佐野ラーメン店。彼女はそこの看板オカミ。もう既に趣味の域を超え指導者として書道に打ち込んでいる彼女。昨秋も都美術館の書展に出品。引き続き今も現役・カルチャースクールの講師・サークル活動生き甲斐、という向き多数。体調を崩し目下療養中、も幾人か。早期の本復を祈り再会を期待。こんな顔ぶれの我がB組。平成2年に初のクラス会。以後昨年10月までに計4回。毎回の参加者約20名。96歳を超え、腰痛症で多少歩行がご不自由そうなことを除けばお元気な渡井栄一郎先生(化学)を囲み、恩師ご健在の幸せを噛みしめつつ、近況報告や四方山話で旧交を温めている。会を重ねるごとに開催間隔が狭まるのは我々も先が短くなった証拠とか。物故者7名。長命輝明・戸塚康二・村上正宏・加藤千秋・山崎豊・伊藤(松本)節子・神尾(横谷)恵子。冥福を祈ります。(吉川典紀)

【C組】赤坂正雄先生(別掲)
◆クラスメート 遠藤高示キリスト教の牧師。息子が10年ぐらい前から暮れの赤坂先生を囲む会に出席している。大野芳希大学教授はもうじき終わりで幾つかの学校の講師をする。河本考央リコーを退職。ハングライダーを楽しむ。白井進現役で頑張ってる。田巻正彦日立を退職、悠々自適。新田貞雄設計事務所を経営。太田郁雄山歩きやカメラを抱えて四季の花の撮影に熱中。関根次男現在も週4勤。余暇は趣味の俳句と油絵。桝谷健裕夫婦で山歩きに熱中。日本百名山を踏破。目黒武博家業の水道工事店を経営。相賀忠雄現在も数々のセミナーに参加の勉強家。土屋征治山歩きには参加しないが、元気な様子。池田好雄太田から池田までが山歩きの「軟弱会」メンバー。リタイヤして余生をのんびりと楽しみたい。永井博弟の漫画家・永井豪らとダイナミックプロ創立。作家永井泰宇として「凄ノ王伝説」、「刑法第三十九条」。根岸紘リアルトン電子工業から外資SOUNDESIGNに。ニューヨーク、香港、韓国、メキシコ駐在。現在韓国語ボランティア。丸田研一小学館で百科事典等を編集。現在日本語ボランティア。著書「我が祖父井上成美」。中村保博工学院大卒。オリンパスで医療用機械事業に従事。定年後の04年7月急死。大澤昌平建設省に入り国会図書館勤務を経て現在自適生活。島田勝夫タカラの重役。現在は高校の非常勤講師。二瓶鋭二宝建設社長。同窓会、同期会で尽力。昨年残念ながら逝去された。橋本八郎ご存じ落語家・三遊亭圓窓師匠。窓門会、文落連を中心に毎年春母校で「笑涯楽習」を開催。松野篤志日本配合飼料の重役勤務中平成19年逝去。飯塚和男海上勤務(船員)の後、古本屋のおやじ。(大澤昌平、池田好雄、丸田研一、飯塚和男)


【D組】後藤神戸先生(国語)
温厚で人情味のある先生でした。平成2年3月8日逝去。謹んでご冥福をお祈りいたします。
◆クラスメート「今年4月で結婚41年目に入りました。結婚披露宴には神戸先生にお見えいただき、お祝いの  お言葉をいただきましたが、今は全く思い出せません。雨の中、関西へ新婚旅行に出掛けるため新幹線に乗り込みました。発車ちょっと前、突然先生が車内にお見えになり、食べながら行きなさいと、バナナとイチゴをいただきました。本当にうれしいプレゼントでした。今でもその時の先生が鮮やかに思い出されます。先生も亡くなられて間もなく20年。あらためて先生の温かい愛情をかみしめています。(根岸秀夫)」「進路相談の時、師のたまわく『君は文科系に向いているな』。確かに物理より漢文の方が成績としては良かったのだ。未熟な弟子は希望と違う指示に悩むが、理系に進んで色々と苦労はする。文科系を進めた本当の理由は今としては知るすべはない。(斎藤紀男)」「先生が首を傾けいつも笑顔でいる姿はいまだに忘れられない。叱られた記憶はないが、あの微笑の目にじっと見据える力を感じた。(佐々木 望)「体育の履修時間不足を補講を受ければ卒業できると言う段取りを整えてくれて、1、2月に後藤(守生)先生や神戸先生とマラソンや卓球をし無事卒業できた。文京を辞めた後滝野川女子学園で教えていたが、帰り道が駒込駅の時は、私の時計店の前を通る。店をチラチラ覘いている時は、お酒の相手を探している時で、よくお相手した。日本酒一本で酒豪だったが晩年は弱くなられた。人情味があり、よく可愛がってもらった先生だった。(清水浩二)」「漢文の先生に古文が教えられるのですか?と喰ってかる。先生はいつものニコニコした顔で『大丈夫』。今思えばずいぶん無礼な生徒だ。お酒を酌み交わして詫びる時間が欲しかった。(箙紘矢)」

【E組】菅野二郎先生(日本史)
現在も豊島区で月2回の日本史講座のボランティアなどお元気で活躍中。
◆クラスメート 今は高層マンションやオフィスタワーが建つ汐留の一角にあった新聞社に入社したのは、昭和38年。64東京五輪の前年だった。入って間もなく編集局でウロウロしていると、「キミ、文京生なんだって」と声をかけてくれた人がいた。およそ新聞記者らしくない行儀のよさ。端正の顔立ちのその人は社内では"公明さん"と呼ばれ、実は文京の卒業生だった。
それが縁で、彼は後輩である私の面倒をよくみてくれた。
吉展ちゃん事件の現場や五輪の女子バレー決勝戦など一緒に取材し、先輩から記者修行のイロハを教え込まれた。
よく酒も飲んだが、彼の口から野球部の話はついぞ出なかった。3年間、野球部に在籍した当方も、誇れる話しとてなく話題にした覚えはない。
たった一度、社内のソフトボール大会で、公明さんが放った弾丸ライナーのすごさは忘れられない。
何年か前「紫筍」に、豊島中野球部が甲子園一歩手前まで勝ち進んだ記録と当事者のインタビュー記事が載ったことがある。そこに添えられた当時の野球部員のメンバー表の末尾に「補欠 鈴木公明3年」の名を見つけ、懐かしさと同時に複雑な思いがこみあげてきた。
そうか、公明さんも野球部員だったのか。しかも文京野球部の伝統の1ページを刻んだチームの一員だったのだ。
補欠だって立派なもんじゃないですか。その頃の思い出話を公明さんから、じかに聞きたかったなあ。
鈴木公明氏は、数年前鬼籍に入られたと聞いた。われわれが勤めていた新聞社もいまはない。(清水紀夫)

【F組】長谷川次郎先生(物理)
昭和51年10月13日にご逝去されました。改めてご冥福をお祈りいたします。
◆クラスメート男子24名、女子17名のクラスでしたが、はや数名の物故者が出ています。年1回同期会が開催されていますが、F組からの参加者は3〜5名程度の出席者数です。この度は卒業後50年の集いです。卒業後校舎もすっかり変わって奇麗になった文京高校を見るもよし、50年ぶりに顔を合わせる同級生もいるでしょう。次の50年には参加できそうにもありませんので是非この機会に気軽に参加されたらいかがでしょう。(星野静雄)