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東京都立文京高等学校同窓会

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写  真  集

校舎の系譜

校 舎 年 譜
第四期 混乱期(昭和41〜57年)

学校群制度(昭和41年〜57年)
学校群制度が昭和41年7月に決まり、昭和42年の受験生(22期)から実施された。この学校群制度は本校に衝撃と失望をもたらした。
学校群制度は都立の特定の進学校をなくし、都立高の進学実績がなだらかになることを狙ったものとして制定された。各学区内の高校を二・三校ずつ組合せて数個の群に分ける。7月に新聞発表された学校群編成表では、第四学区は@小石川と文京 A竹早・向丘・赤城台(第二学区)その他三群の組合せだった。最終決定の前々日に、丸岡真幸校長(6代 昭和38〜43年)へ都教育庁より「第二学区の赤城台、第四学区の向丘と文京との組み合わせに急遽変更された」旨の連絡があった。文京と竹早が入れ替わったのである。翌日丸岡校長・PTA会長他は教育長に急遽談判するが決定は変わらず、翌々日92群として発表された。この学校群制度は受験生は学校群を選べても、受験生の意志を聞かずに各校に割り振る制度であった。丸岡校長は『「有名校つぶし」と「都立は私立の滑り止め」。本校には前代未聞の学園紛争の悲劇をもたらした』と総括している。この制度は56年度まで15年続いた。都立高の格差是正、平均化は成功したが、競争心、向上心を失わせる結果となり都立高の質の低下となった。「私高都低」の潮流を作り、現在に至っている。

校歌制定と校旗の贈呈(昭和43年)
昭和15年創設時に制定の「第三東京市立中学校校歌」(高野辰之作詞、信時潔作曲)が終戦まで歌われていた。しかし時節を反映した神国日本報国調で、戦後歌われなくなった。昭和30年に音楽部顧問の遊川益次先生(国語、昭和26年〜32年)が中心となり、皆が歌い易い生徒歌を作ることになり公募した。その結果二つの生徒歌が決まった。一つは作詞・中島肇さん(7期D)、作曲・土師幸雄さん(8期C)によるもの。もう一つは遊川益次先生作詞・作曲によるもの。遊川先生の「生徒歌」は校歌代わりに入学式などの式典で全校で歌われた。昭和38年に就任し丸岡真幸校長は校歌制定に取り掛かり、土岐善麿作詞、平井康三郎作曲の現在の校歌を43年3月に文京公会堂で発表した。またこの年1月に戦災で焼失したままだった「校旗」を同窓会から贈呈。校旗、校歌がそろい文京の戦後が終わった年となった。

◎球紫会誕生(昭和44年)
母校を思い出させる一つに夏の甲子園大会がある。全国高等学校野球選手権東京都大会に母校野球部は昭和21年から欠かさず出場している。最も甲子園に近かったのは、昭和22年。東京都大会準々決勝まで進んだ。2試合を完封勝利し、慶應商工と激突。この一戦は息詰まる投手戦。しかし0―1で惜敗。慶應はその年甲子園に出場したので、慶應を破っていれば…と振り返る当時の生徒は多い。近年では昭和45年、53年のベスト16が最高。昭和44年4月に「都立文京高等学校野球部OBの融和・親睦を計り併せて現野球部部員の指導及び財政援助を行うこと」を目的として球紫会が設立。平成元年に野球部後援会として新たに発足している。ホームページも開設。さらに平成21年年には新しいユニフォームを寄贈した。現在部員は90名あまり。都立高の中では強豪に属する。

全校閉鎖(昭和44年10月)
昭和44年、前年の大学紛争の影響を受け、他校生を含む過激派生徒が一般生徒を巻き込んで、立看板や不法な全校集会、バリケードによる校舎封鎖などが行われた。文京も「卒業式粉砕」のビラがまかれ44年3月14日の卒業式が諸般の事情で中止になった。10月には文化祭中に「規制反対」のタテカンを掲げて、参加者50名の集会が行われた。学校側は、教師数名が毎晩警備に当たったが、10月19日、深夜11時頃、他校生を含む数十名のヘルメット部隊が新館を封鎖。校長・教師10名近くを朝まで監禁し4項目要求(後に8項目)を出した。翌日全校生徒体育館に集合阿部乾六校長(第7代 昭和43〜46年)より「緊急事態」が報告された。10月29日機動隊導入の恐れがあり、教師による実力解除が始まる。あわや乱闘一歩前まで事態は進むが、文京全学ストライキ実行委員会は自主解除の声明を発表。全校生徒による清掃が行われた。その後全校集会等を経て12月4日から3時間方式の授業が始まる。文部省規定の授業時間に達するため大学入試中も授業が行われた。3月10日お別れの集いが行われ、3年生に卒業証書が渡された。

◎紫筍直撃インタビュー
昭和48年10月。文化祭開会式に卒業生で落語家の三遊亭圓窓師匠(橋本八郎さん、11期C)が招待され、全校生徒に講演をした。その後校長室で紫筍編集部員がインタビューを行い、翌年の紫筍18号に「直撃インタビュー」として掲載された。以降同窓生を訪ね在校時代の思い出や現在の仕事などを語ってもらうものだが、45号まで26人が登場している。秋谷栄之助さん(四期A、前創価学会会長)、矢島稔さん(3期E、現群馬県立昆虫の森園長)小林伴子さん(21期G、フラメンコ舞踊家)、亡くなられた方では色川武大さん(二期C、阿佐田哲也。作家で直木賞受賞)、辻静雄さん(3期A、辻料理師学校校長)など多士済々。51号から復活している。

自治会の再建(昭和47年10月)
昭和44年10月の全校閉鎖のときに、自治会が消滅し、その後幾度か再建運動があったが失敗。昭和47年10月に3年ぶりに自治会が復活した。当時の自治会の再建に尽力した時田公代さん(26期C)は「自治会は生徒一個人を、各HRを、各学年を、そして学校全体を一つに纏める絶え間ない努力の場であり、学生生活を円滑に送る手助けとなるもの」として生徒会長も勤めた。あわせて、13の文化部、16の体育部、5同好会が復活した。また11月に文化祭も復活した。
 
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