ニューヨーク便り

ニューヨーク便り 1978年9月に初めてニューヨークを訪れました。日本での仕事は一時休職にし、3~6ヶ月の予定で訪れたこの街は、私の好奇心を十分過ぎる程満たしてくれました。結局8ヶ月の滞在を終え3ヶ月のヨーロッパでの道草をした後、日本へ帰国。その時点で再びニューヨークを訪れる事を決めていました。 1980年2月、二度目にニューヨークを訪れた時は、「面白そうな街だから2~3年暮らして日本へ帰ろう」と気軽なものでした。世界中の色々な国から来た人達の中での生活はいつも緊張感を強いられ、それは私にとって嫌なものではありませんでした。幸い仕事もすぐ見つかり、ニューヨークでの生活が始まり、1年、2年、、、5年と飛ぶように時が過ぎ、フッとした時もう10年間が過ぎていました。 ビートルズ世代の私にとっての憧れの外国はイギリスでありロンドンでした。将来何処か外国に住んでみたいという夢を持っていましたが、1975年夏にホームステイプログラムで訪れたロンドンには、もし私が住みたいのであれば援助を惜しまないという知り合いが居たにも拘らず、住みたいとは思いませんでした。しかしニューヨークはそんな私の十代からの夢を実現させてくれる街だったのです。以来今年2010年の今、30年間のニューヨーク生活になった訳です。日本にいた時からの美容師の仕事を引き続き続け、自分のサロンを持ち2001年9月11日のテロの後の苦難も何とか乗り越え、先のリーマンズショックで息も絶え絶えになりながら何とか生きている、、、という現実でしょうか。
「生き馬の目を射抜く」と言われるニューヨーク。9・11の後はニューヨーク、アメリカと言わず世界中の状況が変わったと言えると思います。その上、人々を苦しめる天災、戦争、、、。格差はどんどん大きくなり、ニューヨークも中流が姿を消しつつある様な気がします。あるアメリカ人夫妻。夫婦共ドクターですが、生活の質を変えています。気楽に行っていた長期の休暇は殆んど取らなくなり、外食の回数も控え気味に、と言う風に。しかし庶民の生活はそれなりに保護されている実感はあります。いつもどこかでやっている無料コンサート、イヴェント、パフォーマンス、、、。いろいろな言語の本は市の図書館に揃っており、地下鉄はつい最近25セント値上がりになり皆で、「高くなった、高くなった」と不満を言っている、、でも何駅乗っても、乗り換えても2ドル25セント、、。そうそう、バスから地下鉄、地下鉄からバス、バスから路線の違うバス、、。2時間以内に使えば2ドル25セント。リクリエーションセンターという、所謂ジムですが、我が家から100メートルの所にあり一番近いプールなので会員になっていますが、なんと年間会費は55歳以下75ドル、55歳以上は10ドルです。私にとっては今まで三っ目のクラブですが、20年前は年間1600ドル、子供が出来てからは子供も行けるYMCAは年600ドル、そして今、ニューヨーク市のジムは年10ドル。そして今の市のプールがベストのプールです。
ニューヨーク市はここ1~2年の間に、市内に自転車レーンをどんどん増設しています。自転車の使用を奨励しています。「自転車乗り安全月間」の時等、ヘルメットを無料で配っていました。実は私は健康と、利便性とエコの為、、一番大きな理由は自転車が大好きなため、、自転車を乗り回しています。マンハッタン島は西はハドソン川、東はイースト川に挟まれています、私は西ハドソン川のすぐ近くに住んでおり、ハドソン川に沿ってダウンタウンからアップタウンまで歩行者、ジョッガー、そして自転車だけのためのレーンがあり、マンハッタンは一部を除いて碁盤の目の様に区画されている為、その自転車レーンを川を見ながら移動をし、目的地に一番近い道をクロスタウンすると、簡単に目的地に着いてしまうという訳でして、、本当に便利です。私は市から頂いた赤地に黒の格子縞のヘルメットをかぶり、ワイルドで有名なタクシーを恐れつつ、タラタラと自転車に乗っていると、「ヘイ!ママ」とか声をかけられたり、坂道をフウフウしながら自転車をこいでいると、横をすいすいと通り抜けて行く黒人の若者が「ユウキャン ドゥ イットゥ!」などと声をかけられ、、、「私ってやっぱり、アトラクタィブなエイジアンウーマンなんだわ、、、」と思っていたら、20歳の我が娘が「ママ、オバーちゃんだからだよ!」と、のたまいました。 ハブ ア ナイス デイ!!
 17期D組 宮崎 澄子