尾崎恵子先生

社会人の勉強、外国での勉強の進め

この度、編集長からのご依頼を受け、私の外国での経験を書いてみます。文京高校には1973年から1987年までお世話になりました。英語を教えること、英語についての知識、英語を使った活動を統合するような活動をしたいと考え、1990年に都立高校を退職しました。  都立高校での職と関係のある勉強、すなわち、イギリスのエジンバラ大学大学院応用言語学科での勉強から始めました。応用言語学とは、エジンバラ大学でも他の所でもほとんど英語教授法という意味で使われています。1年しか滞在しませんでしたが、スコットランドのエジンバラの壮大、荘厳な市街は、イギリスで最も印象深く、愛着のある場所になりました。外国とは言え、同じコースに他に日本人が3人もいましたし、40名以上の仲間のほとんどが英語や外国語の教師だったので、特に目新しい環境ではありませんでした。1年間に中小の論文を数本書かねばならず、一番苦労したのがいかに速く本や論文を読むかでした。自分の論文を書く前に多くの文献を読まねばなりません。エジンバラで最も興味を持ったのは、英語を教えることにも理論言語学にもつながる文法でした。  例年になく雪が多く、凍てつく寒さの中で過ごした1年が過ぎる頃には、英語教師として何が教えるのに役立つかという視点で勉強するのではなく、言語学、心理学を探求する者として、実用性を求めずに純粋にあるいは理論的に知識を追求したいと考えるようになりました。それで、心理学が盛んな南イングランドの南端のサセックス大学に移りました。

カルチャーショックなどなく、経験することがほとんど予想どおりだったのはおそらく年令のせいで、もっと若かったらいろいろなことが新鮮に映ったのではないでしょうか。 サセックス大学大学院では、認知科学・コンピュータ科学学群、言語学研究部門に籍を置きました。コンピュータ科学、心理学、哲学を研究している学生、研究者といっしょに勉強できることが非常なメリットでした。サセックス大学は、色々な意味でイギリスで最もラディカルな大学のひとつで、学際的な研究が奨励され、既存の領域間の境界を踏み越えて新しい分野を開拓する勇気ある人々がおり、学問的にも大学運営に関しても徹底的に民主的であろうとする機運に溢れていました。私が最も身を置きたいと思うような環境でした。この大学で勉強を始めた時にはすでに、その後の研究課題となっている「黙読の中の音声的過程」を研究しようと決めていました。 サセックス大学の「認知心理学」の授業が強く印象に残っています。エジンバラでは英語教育に役立たせるという方向性で、授業の内容には馴染みがあったのに対し、サセックス大学では人間の知覚、認知を解明しようという立場に切り替えたので、仲間もほとんどがイギリス人で外国語の教師などはひとりもいない授業もありました。引越しが遅れて最初に出席した「認知心理学」で、「視覚のコンピュータモデル」をやっており、最初の2回ほどはまったく理解できないも同然でした。しかし、大変強く惹きつけられ、ぜひこれを自分の専門にしたいと思いました。自分自身の強い興味に支えられてなんとかその科目にパスすることができ、意欲があればスタートの時知識がなくても勉強の成果を上げられるものだという貴重な経験をしました。このことは、後に日本の大学で教えるようになって、外国人留学生に接するのに役立ちました。英文科1年の日本語で行われる「英語精読」の授業に2人の留学生がおり、日本語も英語もおぼつかない彼女達は、1年の最後の試験でも成績が芳しくありませんでした。しかし、熱心な態度、強い知的好奇心から、この留学生達は長期的には大成するに違いないと確信しました。私の期待に違わず、その内のひとりは修士課程に進み、日本の企業に就職しました。意欲のある学生がすぐには勉強の成果が上げられない時、教員は暖かく見守ってあげるべきだということを、私の学生、教員の経験から学びました。 しかし、サセックス時代に公私共に大きな問題が起こり、博士論文作成が遅れました。イギリスの高等教育拡張政策により、大学の研究者、学生の数がどんどん増えて設備も不足し、言語学の学生である私は、心理学の教員、学生と実験室を取り合うような事態になりました。また、両親が相次いで病気になり、長期、短期に3回も休学せざるを得ませんでした。それでもなんとか博士論文を完成し、審査にも無事に合格しました。

その後、カナダのモントリオール大学老人病研究所研究センターで、「心内辞書プロジェクトグループ」のポスドク(博士研究員)の職を得ました。サセックスでの研究がそのまま続行でき、うれしく思いました。また、採用に当たっても、国籍、性別、年令に関係なく、私の提出した研究計画が認められたので、感激しました。日本でこのような経験をすることはないでしょう。モントリオールは、第一にフランス語圏、第二に英語圏で、私の若い時なら大変喜ぶような多言語の環境でしたが、すでに私の第一の興味はいかに心理言語学的な実験を成功させるかで、それほどフランス語の習得に熱心になりませんでした。フランス語を母語とする研究者や外国人とは英語で話ができたので、フランス語を使う必要もあまりなかったのです。研究対象は主に日本語の漢字で、その認知、理解過程を調べようとしていました。カナダでの研究は短期間で終えねばならなくなりました。私の専門とは関係のない仕事のために、日本に帰らねばならない事情ができたからです。   2001年に帰国し、その後、昨年の「紫筍」に書きましたような生活を送っております。